フィリピン絵画制作記
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クライアント邸のメインルームに飾る絵は、自然にバタンガス州の風景になっていきました。
なんか、気分だけはタヒチに行ったゴーギャンですな♪
ところで80歳前後の方にとって、フィリピンと聞くと、太平洋の激戦地というイメージが強く、事実フィリピンのあちこちにはそんな戦争の爪痕が数多く残されています。
クライアント邸のあるサクラ・ビレッジは、何と日本軍の駐屯地があったところ。
リパは標高700mの高地で、マニラなどに比べると朝夕は涼しく過ごしやすいのですが、中でもこのビレッジはマララヤ山(上の絵に描いた山)から”おろし”が吹いて来て快適です。
駐屯地が一等地にあるというのは、南方の国にいて一番怖いのは敵よりも疫病。
そんな兵隊さんを休める意味もあったのですが、日本軍も一番ええとこに基地を置いたものです。
↑ こちらが本物のマララヤ山。リパの天気は山に雲がかぶると、必ず雨がマララヤ山からやってきます。
ビレッジはフィリピンに40年以上も暮らしている82歳の日本人建築家が作ったものですが、さすがにこの地のことを熟知していて、街中と比べても快適さが違います。
ところがマララヤ山というのは、人跡未踏の魔の山だそうで、未だに道がなく、毒蛇が至る所にいる危険な山だそうです。
若い頃、マララヤ山を登ったことのあるビレッジの建築家オーナーは、「知らなかったとはいえ、よく登ったものだ」とおっしゃっていました。
毒蛇は現地では「コブラ」と呼ばれているそうですが、実際にはマムシの一種だそうで、昔はビレッジにもしばしば現われたそうです。
建築家オーナーの家にも昔出たことがあるそうで、朝起きると番犬2頭、大きなジャーマン・シェパードが死んでいたとか。
シェパードも噛まれたあと、マムシを噛み殺したようで、蛇と犬の死体が横たわっていたということで、噛まれた犬の足が膨れ上がっていたというから、それは壮絶な戦いだったのでしょう。
コブラは神経性の毒で、マムシは皮膚が腫れ上がる毒だと言いますから、たしかに話を聞いてみても、マムシの一種に違いありません。
ところが終戦間、リパに米軍が上陸してきた時に、このマララヤ山に日本軍が大砲を人力で運んでいったというのです。
近くに見えますが、マララヤ山は標高およそ1700mの山だそうで、車でも20分ほどかかります。
山まで大砲を運んだ日本兵たちは、さらに急峻な道なきジャングルの山へと持ち上げていったというのですから驚きです。おそらくはマムシに噛まれて無念にも命を落とした兵士もいたでしょう。
大砲をマララヤ山に運んだ日本兵は、上陸した米軍に対抗したといいますが、レイテ島やコレヒドール島の戦いのように、ほとんどが玉砕したに違いありません。
未だにマララヤ山には、そうした大砲や日本軍の立てこもった跡があるそうですが、建築家オーナーが登ったという40年前から、変わってないといいますから、今ではどんな恐ろしい様相になっていることか・・。
亡くなった兵士たちに哀悼の意をあらわすほかありません。
↑ この後、マララヤ山の麓まで出かけましたが、養豚場のあるサンホセのような明るい場所ではなく、昔は山賊が出たという昼なお暗いジャングルでした。
南方といっても、その地勢はさまざま。
それにしても、今の日本の暮らしというのは、そうした若くして命を落とした私たちの先祖によって成り立っているということを実感いたしました。
改憲派のわたくしではありますが、それだけにかえって戦争というものをやれば、どんなことになるのか、背筋が寒くなった次第です。
そんな思いを誰もがしないよう。
クライアント家族がいつまでも平和で暮らせるよう。自分と自分の家族、それに大勢の人たちにいつまでも祝福があるよう。
話を聞いたあとに、願いを込めて改めて筆をとりました。