ロンドンオリンピック男子柔道、史上はじめての金メダルなし。
今回の柔道はいろいろ考えさせられるものがありました。
実は柔道はたいへんルールが複雑なスポーツで(ここではあえて柔道をスポーツと呼びますが)、しかも頻繁にそのルールが変わるため、審判の心労というのは並大抵ではありません。
今回、海老沼選手とチェ選手の間に、2度も判定がくつがえることがありました。
結果的に海老沼選手は銅メダルでしたが、この判定に批判が集まったため、この後に出た中矢選手の決勝・・・完全に中矢が一本を取っていたのが副審の判定でくつがえったのですが、海老沼選手の一件があったため、外にいたジュリーが何も異論をとなえませんでした。
もしかしたら中矢が金メダルだった判定ですが、出てしまった結果はどうにもなりません。
それよりも、どうしたらこれから国際大会で勝てるかということ。
それに加えて、もともと柔道とはどういうものだったのか、ここで考えてみたいと思います。
以下、じゅん×じゅんさんの米とわたしのレスからです。
かなり昔は柔道に全く興味がなくて、オリンピックでしか見たことがありませんでした。「山下さんは知ってるわ~」ぐらい。
それが、あるとき国内の柔道の大会をテレビ中継しているのを見て衝撃を受けたんですよ。『かっこいい!面白い!凄い!』なんでしょう、勝った方も負けた方も強いというのが分かるんです。そりゃあ全国の柔道家のトップが争っているんですから、どの階級も手に汗握る試合でした。
その後にオリンピックを見たら、『なんだろう、この猫パンチ合戦は。。。』と。
相撲ファンのじゅん×じゅんさん。
さすがはお目が高い。
実は柔道は国際ルールと、国内の講道館ルールとが違う、オリンピックでは唯一のスポーツなのです。
細かいルールは忘れましたが、、朽ち木倒しだか肩車だかは禁じ手になってないとか、講道館ルールの方が禁じ手が少なかったように記憶しています。
そもそもオリンピック憲章によると柔道の定義は、オリンピック競技の中で最短であります。どんなものかと言えば・・・
「嘉納治五郎が創設したものを柔道という」
ただこれだけです。
では、嘉納治五郎が作った柔道というのはどんなものかといえば、それには3つの要素があって・・・
一つは体育としての要素。これはスポーツの要素と考えて良いでしょう。
一つは哲学としての要素。
もう一つは「死合」としての要素です。
もともと柔道の母体になった柔術は、戦国時代など甲冑組打ちの際に、拳や刀が効かない相手を投げて首の骨を折ることによって制する、文字通り人殺しの技でした。
死合は文字通り、それを意味したわけですが、あまりに物騒でイメージが悪いので「試し合い」の文字を嘉納治五郎自らが当てたのです。
死をシミュレーションすることで、生きることをより感じ、互いにより良い社会を作る。
「精力善用 自他共栄」
それが柔道の基本思想なわけであります。
では、その思想が外国のJUDOにないかといえば、そういうわけでもないようで、逆に今の日本の柔道界がそれを意識してるかといえば、そういうわけでもないようです。
正直言えば「強い柔道」と、そういった哲学としての柔道と同じかといえば、そういうわけではありません。
創設者の嘉納治五郎先生が、今のリネールとやって勝てるかといえば、おそらくはそうではないでしょう。
彼の死後、弟子たちに「嘉納先生は強かったんですか?」と聞くと、みな口を揃えて「嘉納先生は立派だった」と答えたそうですから、最強ではなかったのだと思います。
柔道はJUDOになってしまったことはたしかですが、それでも勝負ごとですから勝たないことには仕方ありません。
そんな中で出た白鵬発言。
「柔道男子は海外出稽古に行け」
これはある意味、必要なことではないかと思いました。
たしかに今の大相撲も、先場所の稀勢の里VS日馬富士との一番や、白鵬がきせ相手に変わってしまった一番など、柔道のJUDO化に近い現象が見られますが、それでも勝負にこだわるのであれば、やるべきことをする必要があるかと思いました。
(好きか嫌いかは別)。
柔道の原点は原点として尊重しないといけませんが、それと勝負に勝てるかは分けて考えないといけません。
おはようございます。黙祷終わってきました。
私がこの発言に読み取ったのは、横綱の(そしてその他外国人力士の)苦労です。言葉も文化も食べ物のない国からいきなり相撲部屋に入り、関取の付け人をしながら稽古をする。そういう苦労を(たとえ出世が早くても)味わった中からおそらく多くを学んだのだろうと思いました。
外国生活っていうのはストレスフルなもんです。色々日本にいるとおりにはなりません。日本が異様に便利な国なので、外に行けばそれだけでもギャップはあるし、自己主張しないと何も手に入りません。今回の男子柔道の選手ののほほんとした顔を見ると、そういう体験をするのもいいのではないかと思いました。そしてそういう体験を若い頃積んだ人は反日になりませんね。
またきますわ。
柔道については知らないことがいっぱい。国際ルールと講道館ルールが違うのも知りませんでした。同じルールで、その上で勝負へのこだわりみたいなものが違うんだと思っていました。
ちらっと見ていただけですが、海外の選手が皆猫パンチ合戦だったわけではなくて、素晴らしい一本もありました。
勝負ですから勝たないとというのも、命をかけていた柔術であることを考えたらなおさらです。
日本柔道がまた世界に君臨する日が来ることを期待したいです。
あ@花さん、こんばんは!
おっしゃる通りですね。
前から申し上げているように、「日本人大関」「日本人横綱」とあまりに連呼するのは、異郷の地に来て奮闘努力をし、血のにじむ思いで出世していった外国人力士たちに失礼ですね。
相撲の上位は外国人ばかりだなんて言いますが、その外国人力士たちがいるから相撲が成立するのであります。
ただ、それと好みの力士か、好みの相撲かというのは別の話ですが。
日本柔道もここまで世界に広まったことを、日本人として誇りにして良いかと思います。
ただ、武道なんで強くないといけませんし、勝負師なら勝たないといけないと思います。
ルールが違う、JUDOであって柔道じゃないなんて言い訳は、言いたいですけどややスジが違うかなと。
昔、どこかの世界大会で、ソウル無差別級金メダルの斉藤仁選手が、韓国の選手に反則で肘を折られたました。
当然相手選手に批判は出ましたが、多くの柔道家が「相手に非があるとはいえ、武道なんだから、そういう技を食らうこと自体がいけない」ということで意見が一致したそうです。
それが日本人の柔道、武道の考え方なんだと思います。
リオでまた巻き返しをはかってほしいところです。
じゅん×じゅんさん、こんばんは!
>海外の選手が皆猫パンチ合戦だったわけではなくて
あの猫パンチ合戦、実は「組み手争い」といって、自分の有利な体勢に持ち込むよう、道着をつかみ合う柔道の攻防です。
相撲とちがって立ち合いがなく、道着を着て戦う柔道ならの攻防なんですが、あれはあまり面白いもんではないですな。
ひとつには選手同士の力が拮抗してる真剣勝負は、つまらなくなるという、ひとつの現象でしょう。
実はわたしも見るなら相撲の方が好きだし面白いと思う方でして・・・。
リオで簡単に日本柔道が復活するとは思えませんが、日本人は簡単にダメにはならないと思います。まあ長い目で見守っていきましょう!
画伯今晩は!
我が家の周辺にはビルがないので、空一面に広がる雲を見ていると知らない場所にいるような、そこへ行って見たいような何とも言えないワクワクした気分になります。ビルの間から見える雲も面白いですね。
柔道、子供の頃見ていたのとは随分印象が違ってきましたね。
ちまちまやってるという気がするのは、ただの無知だからかな…。
いっちゃん、おはようございます!
以前、「街の神秘と憂愁」というタイトルの絵を考えていると申しましたが、もっと明るく希望に満ちた絵にしたいと思ってます。
都会の景色も捨てたもんじゃないでしょ。
どこでも同じ人の住む世界です。
柔道はわたしたち(一緒にしたら怒られる?)の子どもの時分とは別ものです。日本人の持ってる柔道のイメージと違うものになってきたのは間違いないでしょうね。