機関誌おんかん 一期号

以前、拙ブログでコンサートなどを取り上げた木下音感協会ですが、以前、こちらの機関誌を担当されていた先生が引退することになり、それを引き継ぐかたちで、さる女性編集者を迎え心機一転リニューアルしました。
(誰とは書きませんが、このブログをお読みになってる方はすぐわかるはず♪)

もちろんわたしもその大切なパートを担当することに!
一期号は木下式音感教育法、そのメソッドについて記しました。

機関誌の仕事をお受けする前から、落合にある木下音感協会には何度か伺っているのですが、麻奈先生のブログやホームページなどから受ける印象からは、スパルタ教育だと思っていたのですが、子供たちの楽しそうな様子にびっくり!

ちょっと意外だったのを覚えています。

子供もちょっと利口な子だったら、厳しくされてそれで自分の力が伸びるのであれば、少しくらい涙が出ようと何だろうとがんばろうとします(わたしが行った時に泣いてる子はいませんでしたけど)。

機関誌によれば、何でも泣いてる子はお母さんの姿が見えなくなると、たいていはピタリと泣き止むそうです。

まあ、自分の要求を通そうとする子供なりのデモンストレーションなんでしょうけど、いちいちその要求に妥協していたら、その子のためにならないのは言うまでもありません。

機関誌の中で麻奈先生もおっしゃってますが、その場の厳しさを避けたところで、いずれ親の方が先にいなくなります。
長い人生の中で、イヤなことや厳しい状況をすべて避けて通ることはできませんからね。

親だってそのくらいのことはわかっているはずなんでしょうが、子供の要求を飲んだ方が、その場は楽なんで簡単に引いちゃう人が多いのでしょうね。

もちろん、音楽の直接の目的は人生修行ではありませんが、そういう意味で音楽というのは、音楽以外にもさまざまな分野にまたがった素晴らしい教育的要素が含まれてます。もちろん木下式はそういう音楽の持つ力を最大限に、子供の教育に用いてるんですね(麻奈先生、違っていたらご指摘を!)。

まず歌うことで、言葉に密接に関係していること。
それから声を出す、口の形を正確にする、楽譜を読んだり、書いたりなど、身体の複数の感覚をフルに使ってひとつの楽曲を習得する。

これは現在の脳科学においても「効果アリ」とされてる教育法なんですが、木下式はこれを何10年も前からやっているのです。

木下式音感教育法というのは、今の教育に一番欠けているものがあります。

個人的にわたしが今の教育で、与しないもののひとつに「個性の重視」という言葉があります。

個性とオリジナリティを生業にするものとしては非難を買いそうですが、個性とは知識と訓練のベースがあって成り立つもの。まだ人として形成なされきっていない子供に、過度な自由を与えるのはきわめて良くありません。

個性の発見というは比較的近年の話で、天体望遠鏡の観測法から見いだされたそうです。同じ星の観測をするのに、ひとりひとりやり方が違うことから見つかったのだとか。

逆に言えば、個性というのは育てようしなくても、勝手に生まれてくるもの。余計な手間を加えることで、個性でなく、いらない「くせ」が生まれては本末転倒だということですね。

まあ、その「くせ」と「個性」。
見分けにくいものもあることは確かですが、そこまで行けば大したもの。

たいていクセはクセでしかなく、しかも誰でもものすごくいっぱいもってます。
バグが少ない方がスッキリしますよね〜♪

機関誌おんかん 一期号” への15件のコメント

  1. あのブログは、ずいぶん、易しく、そして、優しい気持ちで書いてきたつもりでしたが、それでも、スパルタな感じがあることに、私の方が、驚きました。子どもたちは、愛情あふれる中で厳しくされているので、それも、含めて、楽しんでいるかもしれません。

    子どもとつきあっていると、どんなに幼い子どもにも、個性があり、それは、それぞれに持って生まれた「何か」のような気がします。けれど、この二十年、ただのわがままや欠点も、「個性」と呼び、尊重せよといわれるようになったような気がします。

  2. 個性っていうのはいくら押しつぶそうとしてもほとばしってくるものであり、教師風情(暴言失礼)に発見したり育んだりできるものではない。人との相克の中で生まれてくるものだから、子どものうちから個性なんてそうそうあるわけがない。

  3. 2~3才の幼児も、親や周囲の人と相克しながら、自分を作っていきますから、「幼児に個性がない」というのは、幼児の能力や心を過小評価しているように感じます。
    たしかに、個性は、教師風情に変えられるものではありませんが、教師にも発見することはできると思います。そして、時に、教師にとって、マイナスだと思う個性は「指摘されたり、嫌なことを言うのかもしれません。そうした指摘の中でも、なくさない個性が、後に、もっと強烈な個性に育っていくのではないでしょうか。

  4. 「個性なんてない」ではなく「個性なんてそうそうあるわけがない」という言葉を使ったのは意味があるんですけどね。少なくとも私は、教師になど個性を育まれたくない子どもでした。教師には、一切自分の人格形成に立ち入ってほしくなかった。幼児期は覚えていません。でも小学校に入ってから、記憶に残ってる限りはそうですね。人として尊敬した教師は一人もいませんでしたし、実は名前すら覚えていないので。

  5. 私も小学校、中学と、先生の名前は覚えていないですし、表面的なことばかりを心配する先生としか出会い、尊敬した人はいません。その経験が、私が今、幼児、児童とつきあう時に、表面的なつきあいをしたくないという反面教師にはなりました。
    そういえば弟の先生には、熱心ですばらしい先生がいて、弟はその方に個性を見出していただきました。父の血を色こく受けた弟は、学習障害児っぽい要素があったのですが、弟の能力を2年間で最大限、引き出していただきました。残念ながら、良い先生は公立には居づらく、私学にうつっていきました。学校よりお稽古事の先生から、いろいろな影響を受けました。

  6. 教育を志す人とそうじゃない人って、本当に大きな溝があるのですよね。私は、人が人の個性を育むということがどうしても不遜に思われるのです。でも教師は平気でそういう意志をお持ちの方が多いですね。

  7. お頭さん、おはようございます!

    >個性、って、他人が決めるんじゃないのでしょうか?

    御意にございます。
    アートなどの場合、オリジナリティという言葉の方が正確だと思いますが、これは別に誰にでもあるものではありません。

    ない人はないし、ある人はある。

    だからエラいとか、そういう話ではありませんが、それをとりあげて「育てる」の「重視する」というのは、教育本来のあり方からいうとスジ違いな気もするのです。

  8. 麻奈先生、おはようございます!
    直々のお越し、恐縮です。

    >スパルタな感じがあることに、私の方が、驚きました。

    泣いてる子供をヨシヨシしないといった話ですから、ぱっと目にはどういう風に書いてもある厳しく感じるでしょうね。ブログを読めば愛情を注いで教育していることは、誰でもわかります。
    多少のきびしさは木下式の良さなので、よろしいのではないでしょうか。
    (印象的にいうと、最初に『そんな時でもヨシヨシしません』と書くより、理由をはじめに書いた方がいいかも。まあ、枝葉末節な話ですが)。

    >この二十年、ただのわがままや欠点も、
    >「個性」と呼び、尊重せよといわれるようになった

    その通りですね。
    一部の教師に限った話ですが彼らは全体主義なので、ひとたび男女平等というスローガンを上げたときから、男女の着替えまで一緒にさせたがります。
    そのあたりの区分けができない人たちなので、個性の扱いは非常に危険物ですね。結果的におわがままを容認させることになるわけです。

    わたし個人の意見では、お頭さんのコメントにあるようなことです。
    特にアートの分野では、本来は誰にでもあるようなものではない(多少は誰でもありますが)。

    木下式はその点、トータルな人間形成を育てるシステムですから、あえて「個性」という言葉を使わなくとも、自然にそれが育っていくシステムだと思いました。

  9. あ@花さん、おはようございます!

    麻奈先生とのやりとり、楽しくロムらせていただきました♪

    わたしは個性というのは、お相撲さんで言う取り口だと思います。

    大きい力士、小さい力士、あんこ型、そっぷ型など、さまざまな体型と性格の力士がいる中で、毎日の猛稽古から自分の取り口をつかんでいく。
    それが個性だと思うのです。

    取り口は日々の鍛錬、稽古なくしては完成しません。
    そして相撲の場合は、アートよりもずっとシビアですね。
    芸術はクセと個性の区分けが曖昧ですが、お相撲はクセで勝ち続けることはできません。
    完成された「型」があってこそ、はじめて上に行けるわけですね。

    その取り口を育てる人こそが親方であるわけで、だから鳴戸親方は偉かったのです(キッパリ!)

    ただ、それを男女平等だから着替えも一緒にさせる教師に要求するのは難しいでしょうね〜。

    鳴戸親方みたいな先生は望むべくもありませんが、やっぱり有無を言わせず稽古させるのが教育じゃないでしょうか。

    ところで木下式は相撲部屋ではありませんが、子供の音楽への取り口を完成させるような良さがありますね。

  10. また来ました。
    相撲部屋のことは考えましたよ。このやりとりのなかで。
    あれは文字通り寝食ともにしますからね。
    私なら勉強を教わる場所では勉強を、音楽を教わる場所では音楽だけ習いたいです。つまり、表面的なつきあいで全然かまわない。それ以上人間的にかかわりをもつかどうかを決めるのは双方であるはずなんだけど、教師って自分の人間性の押し売りをするのがいやなんですよね。逆に言うと、それほど自分に自信があるってことにびっくりです。すごく自分との差を感じるのですね。教育に携わる人たちはそういうことに抵抗を感じないタイプなんだと思うのですが、子どもの中には私のような「先生と人間的にかかわりあいたくないタイプ」も混ざってるっていうことを理解しておいてもらえればなあと思います。

  11. 子供の中に、関わってほしくないという子供がいることも確かですね。立ち入らないで、オーラを出す子には、こちらも、立ち入らないなぁ・・・と思います。
    ただ、私たちが預かるのが、幼児期の子供である点が、少し違うかなぁとは思います。
    幼児期の子供は、自分の意志で、おけいこごとを始めるわけではないので、音楽だけ、勉強だけに限定して伸ばすのは難しいのです。

    それでも、親御さんとお約束したことは、できるようにすることが私たちの仕事なので、それを達成するための労は惜しみません。その過程で、物事に取り組む精神性などは嫌でも、伝えないとできるようにならないんですよ。

    たとえば、動物が餌のとり方を教える中で、真剣勝負だと思うんですよ。いい加減な取り組みをしたら、えさが取れないし、動物は必死ですよね。物事の基礎も、教えるなら、きちんと教えないと、教える意味がないので、真剣です。教えたいことが、あるから、教える。それだけ・・・でしょうか。それが、良いか、悪いか、は教えられた子供が後で決めればいいことだと思います。

  12. 音楽でも勉強でもスポーツでも、きちんと取り組まなければいけないのはたしかだし、子どものころの習い事って、それを習うためにあると思います。麻奈さんにお話ししましたが、私もピアノをやっていたし、それは無駄になっていないと思います。そういうことと私の嫌っている「教師の人格押し売り」は全然違うのです。
    木下さんの仕事が音楽を教えることであるのなら、学校の仕事は勉強を教えることです。その子なりに伸びるやり方を見つけるのが仕事なはずです。ところが学校は必ずしもそういう場になっていない。そして教師がくだらない自分語りをしたり、地方公務員にしか通じないちっぽけなローカルルールを説いたり、そういうのが迷惑なのですね。
    だから私は学校には勉強を教える場であってほしいし、木下音感楽院さんには音楽を教える場であってほしい。このお仕事をさせていただいたのは、音楽教育に徹している姿勢に共感を覚えたからです。それに必要な精神論はあってもいいと思います。ただ自分の場合、政治信条とか、教師の公務員らしい安定志向に基づいた独善的な人生観とか、そういうのを小学校で説かれたことが非常に不愉快だったのです。
    麻奈さんは、どうぞ徹頭徹尾、音楽を教えてください。それに付随する精神性は、自動的にお子さんたちの中に養われていくことでしょう。けれども何かものを教える人が知らず知らずのうちに持っている「人格の押し付け」を、利口な子は見抜きます。何さまのつもりだろう? と。
    うちにも教員が一人おりますので昨日その話をしていたら、私同様人のいうことを聞かないで育った人なので「個性なんて教師が育むものではない。押さえつけられても育つのが個性」という考えのようでした。
    少なくとも教育者に育まれたくない子もいる、ある意味どの教師に人格形成をまかしていいかどうか子どものころから教師を評価して面従腹背している子もいる、ということは、キラキラした瞳で教育に取り組む教師の皆さんの夢を壊すかもしれませんが、知っておいていただきたいと思います。
    子どもは社会の掟を学ばなければいけない生き物です。でも心は自由なはずです。

  13. あ@花さん、おはようございます!

    >教師がくだらない自分語りをしたり、
    >地方公務員にしか通じないちっぽけなローカルルールを説いたり

    歌謡曲などの世界では、昔は住み込みで弟子入りしていたようですし、絵画の世界もルネサンスの昔は住み込みだったといいます。

    相撲部屋もそうですが、めざす世界によっては寝食を共にして修行する世界もあるわけで、そういう世界は師匠が人格を云々言わずとも、弟子には自然に伝わっていくものだと思います。

    まあ、師匠の背中を見て育つって言うんでしょうか。

    >それほど自分に自信があるってことにびっくりです。

    わたしがいちばん最初に教員になってびっくりしたことには、20代半ばのはな垂れだった自分がいきなり「先生」と呼ばれたことでした。

    さらに、すぐにそれに慣れてしまった自分にもびっくり。
    同僚の若い(当時)先生には、「先生」と呼ばれないと不満げな人もいて、あの環境にいては、根拠のない自信が出てきても不思議ないんじゃないでしょうか。

  14. 麻奈さん、おはようございます!

    木下式は卒院後にやってくる生徒さんが多いようですね。
    たぶん、在籍してる時と、卒院したあとでは、木下式の見方が違うのでしょう。

    今までの流れと関係ない話になりますが、木下式とのおつきあいで、自分の専門分野・絵画と教育について最近考えたアイデアがあります。

    写真のなかった時代には、絵画は記録としての価値が高かったわけですが、そうした観察眼としての絵画によって教育をすることです。
    とかく受験に関係ないことで、重視されない美術ですが、そちらの方面で何か考えられないか。

    そんなことを考えております。

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