明鏡止水の「護道」を見て思ったこと〜なぜ本来は人を殺す技術だった武道が、人を活かす道になり得たのか?

一昨日にBSプレミアムでオンエアされた「明鏡止水」の“護道”は、Twitterなどですごい反響だったようですね。

バラエティ番組のように、MCが出演者をイジることはもちろんなく、武道家たちに対して徹頭徹尾、敬意を評して真面目にとりくんだのも良かったです。

たぶん、そうした本物が、見た人の心を捉えたのでしょう。

「護道」の心として、人を傷つけたり制したりしない考え方は、もちろん廣木師範がご子息のおーちゃん画伯に対しての愛情から生まれたものですね。

それでは、なぜ本来は人を殺す技術だった武道が、人を活かす技術になり得たのか?
護道はその究極の考え方ですが、私なりにその理由を考えてみましたので、ここに書いてみましょう。

▼こちら廣木師範の新著。
カバーイラストはおーちゃん画伯です!

ご存知のように、武道の稽古というのは痛く苦しいものです。
今でこそ、昔に比べれば理不尽な稽古は少なくなりましたが、それでも技を習得し、強くなるためには、痛みやケガはつきものです。

元々は相手を殺傷し、制圧することが目的だった武道ですが、その稽古の過程においては、どうしても殺される側、傷つけられる側、制圧される側にならないといけません。

型の稽古において、常に取りと受け…つまり攻撃する方と、される方の両方があるのは、そういうことです

また試合というのも、柔道の開祖・嘉納治五郎先生が仰るように、元は「死合い」と書いて、死に対するシミュレーションでもありました。

▼こちらのイラストはおーちゃん画伯によるものです。父に対する絶対の信頼感が絵に出て素晴らしいですね!

武道というのは、そのように制圧する方とされる方、そして死に対するシミュレーションの経験が不可避であるからこそ、そうならないための方法…つまりは「人を活かす道」になったのだと、私は思っています。

廣木師範は様々な武道の門戸を叩いて、修行にあけくれたと言います。
武道家ですから、おそらくは「最強」を目指していたのでしょう。でも、行き着いたものは、人を活かす道「護道」だったというのは、きわめて興味深いことに違いありません。
あ、あくまで私の勝手な想像なので、廣木師範の言葉を代弁するものではありませんよ〜(笑)。

そんな意味で、武道として「護道」がオンエアされて、全国区になったのは、発達障害の世界においてだけでなく、きわめて重要な出来事だったように思えます。

あ、そうそう。
廣木師範、今日は誕生日でしたね。

お誕生日、おめでとうございます!

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