「政治と宗教と野球の話はするな」とは誰が言った?(其の二)〜飯山陽の「イスラム教の論理」で思い出すこと

「政治と宗教と野球の話はするな」とは誰が言った?

▲最近、拙ブログの中でこの記事のアクセスがバカに増えているようですが、私の考えは少し変わってきたので、そのことについて書こうかなと思います。

もちろん、どんな場合でも「政治と宗教と野球の話は禁句」なんて思ってはおりません。ただ「議論で勝っても、その人間を打ち負かしたことにならず、むしろ逆に反感を買われる」という親父の教え(司馬遼太郎の言葉でもあります)は、たしかに事実だと思います。

もっと正確に言うと、ほとんどの場合「人の意見や気持ちは変えることができない」ということでしょうか。

最近、そのように思うようになったひとつの例として、飯山陽の「イスラム教の論理」に書いてある“イスラム国のイスラム教解釈は間違っていない”などという一連のことです(詳細は本をお読みいただければわかると思います)。

私は長いこと「イスラム教は本来寛容な宗教である」と考えていたのですが、その根拠となった出典を思い出すと、それはリベラルで知られた加藤周一氏の言葉だったのです。

しかしながら、コーランに基づいたど真ん中のイスラム教徒から見れば、寛容で他宗教とうまくやっているムスリムは、イスラムで言う大罪を犯してるわけであります。

当然ながらムスリムにとって絶対正しいものはコーランです。
いくら民主主義の観点から「女性差別はいけない」と主張しても、コーランには女性は一段低い存在として明記されていますから、ど真ん中のムスリムにとって、そちらの方が正しいのです。

以前、養老孟司先生がチュニジアかどこかから留学してきた物理学の学生から「素粒子もアッラーが作った」と聞き、これはもう話はできないと思ったそうです。

それを裏付けることとして、「宗教」という言葉は、明治時代に英語のreligionを中国の易経に当てて翻訳したということです。

religionには“真性の教え”という意味があるので、「宗教」という言葉自体が一神教、原理主義を意味すると言っても良いでしょう。

東欧出身の知り合いでプロテスタント原理主義の人がいるのですが、以前、私にしきりにクリスチャンに改宗するよう言ってきました。

「マスオさんは、いつキリスト教徒になるのデスカ?」と何度も聞くので、クリスマスも祝う多神教の自分として「もうなってます」と答えたところ………。

「それじゃ、ダメです」と言われてしまいました(笑)。

これはもう信長公じゃありませんが、是非もなしですな。

そんなことで「政治と宗教と野球の話はするな」というのは、少なくとも宗教に関しては正しいと言えるでしょう。

まあ、日本人にとってみれば仲良くできるイスラム教徒は、教えを厳格に守らない人たちではありますが、それは彼らから見れば罪人と一緒だということを忘れてはいけません。

次回は、浅学ながら「万葉集は作られた伝統?」ということについて書いてみたいと思います。

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