田町にある駒八札の辻店の名物、さんまの棒寿司はこの時期だけの絶品です♪
昨日からのつづきです。
外国人から見て、ハラキリというのは一番理解できないものということをよく聞きます。しかしながら日本人である私は「軍師官兵衛」を見ていても、「播磨灘物語」を読んでいても、切腹を理解しながら読んでいるのに気づきました(別に共感してるわけではナイ)。
今でも責任を取ることを「腹切る覚悟があるのか」みたいな使い方をすることがありますが(若い方はしない?)、西洋の考え方から言えば自殺は大罪です。
英語で自殺はcommit suicide、kill oneselfと言うようで、いずれも「罪を犯す」「自分を殺す」という、罪であるニュアンスが含まれています。
天から授かった命を断つのですから、それが自分の命であろうと罪は罪ですね。
きわめて真っ当な考え方でありますが、では切腹というのはどうなのか。
切腹は責任を取って腹を切るというのが一般的ですが、そればかりではありません。
軍師官兵衛で印象的だった清水宗治の切腹は和睦のための切腹でした。今の価値観で見れば良いことではありませんが、これは西洋で言う「commit suicide」とは大いに違います。
英語で言えば”sacrifice”になりましょうか。人類の罪をかぶるため自ら十字架に磔となったイエス・キリストに近いことをしていることになります。
ですから、西洋人に切腹ということが理解できないかというと、そういうわけではなく、ロダンの彫刻にある「カレーの市民」などは、同じ自己犠牲がテーマになっています。
もっともカレー市6人の主要人物らは、実際に処刑はされなかったそうですが。
切腹というのは行為自体が凄まじいため、サクリファイス(自己犠牲)という意味あいがあるとは理解されないのでしょうね。
ドストエフスキーの「白痴」でしたか、切腹について記述されてる一説があるのですが、「侮辱をされたから死んでやる」というような解釈でした。ドストエフスキーにそれですから、ほかの外国人はなおさらかもしれませんね。
誤解がないように申し上げると、私は切腹を称賛してるわけではありませんが(笑)、人の上に立つ人は腹切る覚悟が必要なんだろうと思いました。切らずに済むならそれが一番ですが。
戦国の世のすさまじい生き方を読みながら、そんなことを感じました。
つくづく良い時代に生まれたものです。