バルテュスが求めたもの

昨日の稀勢の里vs日馬富士戦、なんとマゲつかみの反則勝ち。
白鵬が前々日、マゲで物言いをしたペイが来たとでも言いましょうか。

本日の相撲を見守りたいと思います。

連日、大相撲ねたばかり続いたので、今日は朝の日曜美術館に引きずられ、先日書いたバルテュスの記事の続きを書きましょう。

バルテュスの若い頃、写真を見るとかなりなイケメンですな。
間違いなくモテたに違いありません。
しかも自分の容貌には自信を持っていて、見せ方も知っている顔です。

絵の素晴らしさも加わって、魅了された女性も多かったに違いありません。

私はやったことありませんが、絵描きが女性を口説く時の常套句というのが「モデルをやらないか」というセリフですな。

ピカソなどは「君、きれいだね。私のモデルにならないか。私はピカソだ」と言って口説いた(絵も描いた)そうで、一度言ってみたいものですが、さまざまなタイプの女性をモデルにしたピカソに比べ、バルテュスの場合はスイートスポットが狭かったようです。

節子夫人以外はどこか共通したタイプをモデルにしています。
もっとも節子夫人の場合は、東洋系でまったく骨格の異なる顔だちということもあるでしょう。

夫人をモデルにした時の絵は、平面的なのにマチエールがやたら分厚いという、今まで傾向の違う絵になっているのが面白いところですね。

バルテュスの絵というのは、独学で学んだ人独特のフォルムのゆがみがあるのですが(私は独学じゃないのに、よく絵がゆがみますが)、そこが時として絵画としての面白さが出るのですが、それは対象物を見ないで描いた時に顕著にあらわれます。

↑ 暖炉に火をくべてる男性の後ろ姿をご覧ください。
男性の肩をよく見ると関節がありません。

これはモデルを見ないで描くとよくある現象ですが、 手前のテレーズをモデルにした少女のフォルムとは対照的です。
こういう特徴は日曜画家だった、アンリ・ルッソーなどにはよく見られるものですが、バルテュスの場合はそれが混在しているところが実に不思議な雰囲気を醸し出しています。

画家の興味はモデルのみにあったのでしょうか。この絵に暖炉と火をくべる男性は絶対に必要ですが、それにモデルも画家自身も関心を示してないところが、見る人に意味を考えさせるのですね。

バルテュスに限らず、絵を描く人はギャラリーが考えるような意味づけをしないで描いていることが多いです。

絵を描いていると、最初のアイデアと変わることも多いものです。
描いてる過程で、”これを足してくれ”、”削ってくれ”と、絵の方で語りかけてくるもので、画家自体はなぜそうなるのか、わかってないことが多いのではないでしょうか。

絵が語りかける、画家も伺い知れないことで、作品が別の意味を持ってくることは多々あることで、バルテュスが意味づけを聞かれることを嫌ったのはそんなこともあるように思われます。

反対に北朝鮮の絵画のように、意味づけや目的がハッキリしすぎていると、絵画としては実に魅力のないものになってしまいます。

絵が自由であれ。
無心であれ、というのはそんな“降りてくるもの”というと大げさですが、予想もつかないものを受け入れる力が、画家自身(あるいはほかの仕事も一緒)に必要だからかもしれません。

バルテュスは時間をかけて、そういうものを探っていったのかもしれませんね。

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