昨日は麻布セント・メアリー教会にヘンデルの「メサイア」を聴きに行きました。
前回、聴きに行った震災チャリティコンサート以上のクオリティでした!
演奏はメサイア・コラール・ソサイェティオルガンという、この演奏会のために集まったプロメンバーの集団です。
弦楽四重奏、トランペットが管弦楽パートに編曲されていて、10人のソリストがそれぞれ合唱とソロパートを担当するという、原曲より小さな編成ですが、さほど大きくない教会のホールには大き過ぎる編成。
指揮者は小田彰牧師が担当・・・というより、この方が中心になって行ってるイベントなので、当然「メサイア」は信仰の一環として演奏されます(ソリストのみなさんの多くはクリスチャンではないそうですが)。
俗に「仏を作って魂入れず」という言葉があるくらい、実は信仰と芸術というのは、切っても切りはなせない関係があります。
音楽家でもベートーベンのように、それほど宗教に熱心でなかった人は大勢いますが、ヘンデルの「メサイア」は100%信仰の音楽!
真っ先に私が思い浮かべたのは、あのイタリアの天使僧フラ・アンジェリコでした。
フィレンツェのサンマルコ美術館に行くと、この人の描いた世界でいちばん美しい受胎告知がありますが、まさにこの絵は信仰なくして描けません。
鎌倉時代の仏師たちが残した仏像もそうですが、こうした作品に触れるたびに、祈りというものが(つまり魂を入れるということが)如何にアートにとって大切なものか実感するのですが、この日のメサイアはまさしく天に祈りが届くような音楽でした。
小田牧師のお話ではじめて知ったのですが、ヘンデルはイギリスに渡って一旦成功をおさめるものの、その後メサイアを発表する56歳まで不遇時代が長かったそうです。
ポール・マッカートニーがイエスタデイを書いた時、朝目覚めたら最初から最後まで曲が出来上がっていて、「誰かの曲じゃないのか?」と確認までしたというエピソードがありますが、ヘンデルの「メサイア」それも、あのハレルヤコーラスは瞬時に生まれたという話も興味深かったです。
この日の演奏もそうですが、あの音楽は天から何か降りてこないとできない音楽ですね。ベートーベンの第七の2楽章、モーツアルトのジュピターの4楽章、あれらと一緒です。
ロンドンの再演で、時の国王ジョージ2世がハレルヤコーラスに感激し、思わず起立したことから、この曲になると起立する習慣があるのですが、この日のコンサートもハレルヤコーラスではSTAND UP!
ヘンデルが起死回生の復帰を遂げた、この音楽。
立って聴くと、音楽が全身をビリビリ貫いて素晴らしい感触です。
圧巻は終章の「アーメン・コーラス」
これは思わず教会の天井に、わたしのおすもうエンジェルがいるのではないかと、見上げてしまったほど。
おお!
いました、いました。
大勢のおすもうエンジェルが!
次回、セント・メアリー教会のコンサートは5月27日の日曜日!
この素晴らしいコンサート、行かない手はございません。
みなさまの中で、どなたか興味のある方がいらっしゃれば、ぜひご一緒いたしませんか。
入場は無料ですが、最後に震災の義援金として浄財を入れることになっています。
(あ、いけね。浄財は仏教用語かい♪)
これだけプロの集まった素晴らしいコンサートです、コインはいけませんよ。
福沢諭吉先生とは言いませんが、せめて野口英世博士を1枚は!
ちなみにわたくしは野口博士2枚をかごに入れましたよん♪
こんにちわ、歌う宣教師の小田さんですね。
わたし10年以上前でしたか、某プロテスタントの教会で模様された、この方の「ゴスペル・コンサート」に行った事があります。
讃美歌とは・・・とか、慈しみの意味とか説明された上にご自分で楽器を演奏され、甘い声でお歌いになられていました。
もちろん、ひたすら「アーメン」と歌う「アーメンコーラス」もやられていました。エルヴィス・プレスリーもライブでもよく歌われていた名曲で「エーメン♪」と聞こえます。
この方のおかげで、わが家のお墓に危うく十字架を建てそうになったわたしですが、仏教の「ありがたいお経」を唱えられるより、賛美歌の綺麗なメロディはわたしにとっては魅力的でした。
それでは、ごきげんよう、エーメン!
おっとすいません。字を間違えてしまいました。正解の文字で読み替えてください。やはり、訂正できればいいですね。
追伸、小田さんはCDも出していてわたしは気に入って聞いていました。
正ちゃん帽さん、おはようございます!
おお!
小田牧師さん、有名な方だったのですね。
あの説法といい、ただ者ではないと思ってましたが、
それは知りませんでした。
賛美歌は美しい曲が多いですね。
キリスト教アートの幸福感というのはまた格別だと思います。
またお越しくださいませ。
仏つくって魂入れず… これってひょっとして偶像崇拝を戒めた言葉ですか !? 宗教絵画や宗教音楽もつくった人の信仰が問われるということでしょうか。神は “私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方”(エペソ 3:20)。「神が宿る」とはこのことですね。
さて、クリスチャンの版画家、渡辺禎雄さんの作品を集めたサイトをご紹介します。
http://sites.google.com/site/sadaohanga/home
彼のユニークなのは「民芸」的な表現で、聖書の世界と日本文化を融合させたところでしょうか。キリストやマリアが着物みたいな服装だったり、最後の晩餐に鯛の尾頭や寿司が描かれていたりして、すごく楽しいです。
彼の作品を見ていると日本でクリスチャンが増えない理由のひとつが分かるような気がします。誤解を恐れずに言うと日本人には日本人のキリスト教が必要ではないか。そんなことを考えさせられる渡辺禎雄さんの芸術です。感謝!
村田隆さん、おはようございます!
>仏つくって魂入れず… これってひょっとして偶像崇拝を戒めた言葉ですか !?
おお!
通常は気持ちの入らない仕事に使いますが、そういう解釈もありますね。
信仰が芸術の価値を高めるかどうかは、そんな簡単に決められるものでもないと思います。
さほど信仰に熱心でなかったベートーベンの荘厳ミサ曲は音楽的には傑作ですが、キリスト教的な信仰の深さはバッハのマタイ受難曲に遠くおよびません。だからといって音楽的な価値の優劣が決められるかは、難しい話でして。
渡辺禎雄さんの作品はまさに信仰の深さが伺える作品ですね。絵の中からにじみ出ていてすばらしい。
>誤解を恐れずに言うと日本人には日本人のキリスト教が必要ではないか。
いみじくも遠藤周作さんが「私にとって神とは」の中で同じことを言ってますね。氏の意見では、特に浄土宗、浄土真宗のゆるやかな要素が日本人のキリスト教に必要だと主張してます
これには私も同感しましたし、その見識に感心しました。
日本人には日本人のキリスト教。
ただ元の教えが変わってしまうのが難しいところでしょうね。
日本の仏教は、ブッダが説いた教えとはだいぶ違いものになっていますから・・・。
ただ、それがなかったら、ここまで日本人の中に仏教は根ざさなかったと思います。
ともあれ次回のコンサートが楽しみです!
マスオさん、早速のレスありがとうございます。
こちらは、今、私がハマっているサイトです。長く海外宣教に携わって来られた先生が書いています。長いのでお時間のあるときにでもお読みいただけたら幸いです。では、今日も一日、GOD BLESS YOU!
http://www.geocities.jp/tillich37/sasaki.futuremission.html
村田隆さん、おはようございます!
Masaaki Sasaki先生のサイト、興味深く拝見しました。
さすがに世界も日本もよくわかってらっしゃる方の意見だと感服いたしました。
日本人に原理主義は合わない・・・まったく同感です!
1人の立派なクリスチャンが生まれると、100人のキリスト教ぎらいが生まれる。それが日本人ですね。
クリスチャンはまだ大勢いますが、これがイスラム教となると皆無に近い状態なのは、この点に違いありません。
もともと部族にいた大勢の神々が、一つの偉大な神に集約されるというのは、キリスト教圏&イスラム圏の発想ですが、日本人は今までお世話になっていた神さま(仏さまも)捨てきれません。
祟りもこわいので一緒にあがめます。
良いわるいの両面はありますが、今までの神さまを捨てられないのが日本人なんだと思います。