武田家終焉の地、景徳院に行きました

金曜日の夕方から土日にかけては、恒例の柔道合宿でした。

ここ10数年は、毎年2度ほど山梨の天目山にある山荘で宿泊をしているのですが、目と鼻の先にある景徳院には素通りしたまま。

今回、「竹千代君がゆく!」 の構想時には、徳川家と武田家の戦いについて、何度か資料に目を通したこともあって、今回はぜひ手を合わせに行きたいと要望いたしました。

宿泊所から武道場までの間にあることもあって、土曜の午前中、稽古前にみなでお参りということになりました。

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武田勢が戦国最強の武将のひとつだったことは周知の事実で、あの家康公も三方が原の合戦に破れ、おそれのあまり脱糞したという話(作り話との説アリ)もあるほどです。

武田家は外敵から攻められなかったため、甲斐の国に自分たち本拠の城はなかったとか。奥方たちは戦というものは国の外で行い、必ず勝って帰ってくるものと思い込んでいたのも、武田の強さを伺わせる話です。

信玄亡き後を引き継いだ勝頼は、勇猛な武将ではあったそうですが、戦を好むあまり兵も民も疲弊し、最後は信長&家康の連合軍に攻められ、落ち延びることになります。

立てこもっていた韮崎・新府城を捨てる際、戦は勝つものと信じていた奥方たちは逃げる理由が理解できなかったとか。

親戚筋だった小山田信茂を頼り落ちのびるも、信茂の謀反に遭い天目山へと敗走し、勝頼をはじめとするわずかな手勢は、ここ景徳院で自害し武田氏は滅亡したのです。

その地に徳川家康が建立させたのが景徳院です。

手厚く葬られている上、潔く散った勝頼公が祟るタイプの人間ではないため、なにかが出るということはないそうですが、それにしても天目というのは、今でも夜は鹿やテンが出て来る人里離れた山中です。

天下を取っても不思議なかった武田が、そんな地まで落ちのびていった気持ちがいかばかりか。

勝頼公が戦国の武将ゆえ、潔く散ったでしょうが、さぞ無念だったでしょうし、父たち先祖に申し訳ないと思ったでしょう。

そんなことを思いながら、本堂に手を合わせその日は稽古に向かいました。

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