不遜なタイトル、ご容赦を。
しかしこのタイトル、それ以上でもそれ以下でもありません。
キリコは本当に下手くそな画家でした。
(↑このタイトル、間違っておりました。10年後の記事をご参照くださいませ!)
汐留パナソニック美術館で行われていた「ジョルジョ・デ・キリコ展」、最終日の大混雑の中、昨日行って参りました。
キリコやダリは私にとって、美術の世界に目を向けさせてくれた画家で、今までも何度か展覧会を通じて実物を見てきましたが、今回はなぜかその点に目が行きました。
アカデミックな意味でのデッサン力というのは、あまりアートの本質には影響しない話なのですが、それでも絵画にそれが必要ないのかといえば、そうでもありません。
また、ピカソのように最初から自由自在に描けた画家は別にして、どの画家も初期には未熟な作品を残しています。
同時代のダリが、初期の未熟な技法からメキメキとテクニックを伸ばしているのに比べると、キリコの場合はそれに興味がなかったと思えるほど、技術に無頓着な作品を残しているのが驚きでした。
キリコの場合、極端な言い方をすれば、自分の内面にあるものを表現する際、描く対象物が現実のフォルムに近いかどうかは、あまり興味なかったのかもしれません。
よく言われる「形而上学的絵画」という、よく意味のわからない表現は、英語ではmeta-physic、つまりは物理的なものを超えた世界とでも言いましょうか。
キリコほど人の脳の裏側に存在する世界を描いた画家はいません。
この画家は早いうちに、その世界に到達したのですが、良いとか悪いとかでなく、その世界に達するためにテクニックというのは、さほど必要なかったのかもしれません。
キリコの震えるような線を見ると、諸星大二郎氏と越前谷嘉高氏の絵を思い出します。
諸星大二郎が画家ではなくマンガ家ですが、孔子暗黒伝などの作品は秀逸。
宮崎駿氏も大ファンだそうで、千と千尋のカオナシも、実はオリジナルは諸星大二郎で、その大元はパプアニューギニアの聖霊なのですが、この震えるような線は、まさにキリコと同様の感覚を覚えさせてくれます。
越前谷氏は今や著名な画家ですが、この人は大学時代の友人であります。
わたしは彼の20代の頃をよく知っているのですが、講評会で教授から指摘されたことを少しも言うことを聞かず、よく先生たちにケンカを売っていたという画家の鑑でした。
美術大学の教授というのが、すべて立派な画家というわけではなく、彼をアカデミックな枠に納めようとして、そのたびぶつかっていたものです。
越前谷氏の描く不思議な物体や記号、何度聞いても彼は教えてくれなかったのですが、たぶん本人以外はキリコの言うように、この世で数人わかれば良いのでしょう。(言っても普通の人にはわからないから言わないでいるのでしょう)。
たぶん、彼はキリコと共通してると言われると苦笑いすると思います。 私もシャガールに似てると言われることがありますが、不遜ながら嬉しくないですから(苦笑)
それは別にしてキリコと違い、彼の技術はその後格段に上がったものですが、キリコは最後まで技術に無頓着でした。
今回はそれがよくわかった異色の展覧会でした。