法然と親鸞


昨日は上野の国立博物館に「法然と親鸞」展を見に行きました。

仏教やら仏像と、この手の展覧会は本当に日本人に人気です。
「空海と密教美術」展の時もそうでしたが、この日も休日とあって長蛇の列でした。

それにしてもさすがに浄土宗や浄土真宗は、密教とは対照的です。
密教がプロ相手の仏教なら、浄土教は幅広く一般大衆を相手にした仏教と言えましょうか。

「絶対他力」「他力本願」の言葉通り、
ひたすら南無阿弥陀仏とお念仏を唱えれば、
いかなる者も阿弥陀さまの手によって救われるという実にシンプルでわかりやすい教えは、
文字を知らぬ民百姓からお武家まで、幅広く大衆の心をとらえました。

特に親鸞の浄土真宗は肉食(にくじき)妻帯を許すという、ほとんど何でもありの教えです。
仕事や生活様式は生真面目なのに、こと宗教となるといい加減さを好むのが日本人ですが、
浄土教の寛容さは、われらが国民性には合ってるんでしょうね。

展覧会では法然、親鸞の肖像や直筆が多く展示されてますが、
風貌も書も丸っこい法然上人にくらべ、
眼光鋭く、まるで剣のような文字を書く親鸞上人は対照的でした。
それは親鸞上人の寛容な教えとは、背反するものだったのが興味深いところです。

法然も親鸞も驚くべき碩学で、どちらも比叡山で徹底的な修業と研鑽を積んだ人です。

展覧会ではそれらを示す直筆が数多く展示されていました。

特に親鸞の字は、空海のような能筆ではありませんが、
彼の直筆による「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」は、
世にあまたある仏典の教えを、親鸞自身の教えをまじえて解釈したもので、
徹底した推敲のあとがあってすごい迫力です。

けっきょく、そうした研鑽から「他力本願」の教えは生まれたのでしょう。

私自身の解釈で「他力本願」は、自助努力をしたあとの「他力」と思っていたのですが、
法然や親鸞の本当の教えとは、ナムアミダブツと唱えた瞬間、どのような罪人も、
極楽浄土の道へと開けるという、いやはや・・・恐ろしいほど大らかな教えです。

もちろんそれは「自助努力をすることさえもできない人」に対する教えなので、
何もしないで口を開けていれば、ご飯が食べられるという教えではありません。
(ひろさちや先生が言うように、仏さまは自動販売機じゃあないですからね)。

法然や親鸞の残した書を見ると、
教えを信じる人の心や魂は、何があろうと絶対救ってみせるという気概のようなものを感じました。

鎌倉時代ほど人が殺された時代はないそうですが、
殺した方も、殺されかかった方も、今で言うPTSDになった人は少なくなかったようです。

法然に帰依した武将・熊谷直実などは、自分の息子くらいの年だった平敦盛を殺めたことが、
出家の理由のひとつだといいますから、
精神的にも肉体的にも鍛えぬかれた鎌倉武士でも、殺生には相当な抵抗があったようです。

この時代の高僧は、法然や道元のようにお武家出身という人が多く、
それはやはり数多くの人の生き死にを目の当たりにしてきたこともあるでしょう。

展覧会は仏像も素晴らしいものが多く展示されていて、
なかでも鎌倉の浄光妙寺にある高さ4mもある阿弥陀三尊像は本当に美しい。

余談ながら、浄光妙寺はかの足利尊氏が後醍醐天皇に弓を引く決心をした場所として有名です。
尊氏が創建させた寺として、同じ鎌倉に覚園寺(かくおんじ)があり、
ここに同じ仏師(伝・朝佑)による薬師三尊像と十二神将像があります。

尊氏は死ぬまで、後醍醐天皇に手をかけたことを悔いていたそうで、
浄光妙寺と覚園寺の仏像は、尊氏みずからの命で彫らせていたのではないか、
そう私は勝手に考えています。

また、同じ鎌倉にある長谷観音の金箔修復も尊氏による事業。
戦時中は大逆臣とされた尊氏ですが、きっと信心深いインテリさんだったのだと思います。

ともあれ「法然と親鸞」、12月4日までやってます。
まだの方はぜひご覧くださいませ!

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