インドのアチャールくん 血の女神
chapter05と06を配信中!
締め切りも一区切りついたので、土日は「バベルの塔」制作に励みました。
画廊主などからは、わたしの絵はよく「宗教的だ」と言われることがありますが、これ・・・実は褒め言葉じゃありません。
それは「宗教的なんで売りにくい」という意味があって、 しばしばイベントや企画を断られる口実になっていました。
私自身は自分に都合の良い神さまなら、なんでもウエルカムという、節操のない八百万の神々の信奉者なのですが、絵が宗教的なのは体質なので変えることはできません。
それが今回はクリスチャンのクライアントからの依頼。
思う存分、宗教色が出せそうなものですが、今まで描いた絵が宗教的というのは、出そうと思って出したわけじゃないので、むしろ「もっと宗教色を」という感じが、かえって悩ましいところです。
また、今までは仏教的な絵はいくつも描いてきましたが、キリスト教色というのは少しカラーが違います。
そこで昨日の午後からは、今回ずっと聞き込んでいたグルダ演奏のベートーベンのピアノソナタから、チェルビダッケ演奏の宗教曲のボックスに切り替えをしました。
少しはキリスト教絵画らしくなるかな?
結果・・昨日の段階では、キリスト教色はまるで絵に反映はされませんでしたが、フォーレ、ヴェルディ、ブラームス、モーツァルトのレクイエムという、ヘビーなラインナップを聴き通すことができました。
宗教曲というのは、どれも重たいイメージで、普段家で聴くようなシロモノではないと思っていたのですが、キリスト教絵画を描きながら・・・という気分だったので、昨日は完全に入り込んで堪能しました。
それにしても、レクイエムというのは作曲家にとって特別な分野なのでしょう。
作り手の気持ちの入り方が違います。
どのレクイエムにも共通しているのが、そのメロディの美しさで、作曲家にとって、とっておきの旋律を惜しげもなく投入しているのが素晴らしい。
特にフォーレとヴェルディの旋律の美しさは別物。
ヴェルディのレクイエムで一番有名なのは、TVのBGMなどでよく用いられる「怒りの日」ですが、この激しい音楽と対照的なメロディが本当に美しい。
冒頭のレクイエムは、昔ソビエトの映画監督アンドレイ・タルコフスキーが、イタリアを舞台にして撮った「ノスタルジア」のラストシーンで使っていた音楽でした。
ヴェルディのレクイエムは友人の作家マンゾーニの死に際して書いた作品と言われています。
個人的なことを申し上げると、わたしは父の亡くなる直前に、ヴェルディのレクイエムを聞き込んでいたので、その後しばらくは物忌みのように避けていました。
それがあらためて聴いてみると、別に誰かが亡くなるような音楽ではなく、純粋に美しい音楽であったということでしょう。ただ、そこには敬虔なクリスチャンとしての信仰心があることは確かなようです。
作曲家もベートーベンのように、宗教にはまったく無頓着という人もいれば、バッハやヘンデル、そしてヴェルディも然りと信仰に厚い人も少なくありません。
どちらが優れているというのではありませんが、信仰はやはり音楽に出るようで、ベルディのレクイエム、バッハのマタイ受難曲にくらべて、ベートーベンのミサ・ソレムニスは、合唱つきのオーケストラ曲の趣がないとも言えません。
その中で、特筆すべきはモーツァルトのレクイエムでしょう。
これは貧しさにあえいでいた晩年のモーツアルトが、謎のクライアントからレクイエムの依頼を受け、勝手にその顧客を「死神」と思い込んで作ったと言われてます(実際はどこかの貴族だったそうですが)。
ちなみにモーツアルトはそのまま病気で37歳の短い生涯に幕を閉じ、レクイエムも未完成に終わりました。現在のレクイエムは「涙の日」までが本人の作、あとは弟子が完成させました。
そのためか、この未完のレクイエムには「死の影」が漂います。
ヴェルディのレクイエムも、フォーレのレクイエムも、扱っているのは「他人の死」 なんですが、モーツアルトのそれは「自分の死」を音楽にしているように聞こえます。
ほかのモーツァルト作品とまったく異なる暗い影が、この作品を特異なものにしていると思いました。