いっちゃんにいただいた自家製野菜の数々。どーもごちそうさまです♪
今日は先週の火曜日、稽古の帰りに自己解禁をした美味しいビールをいただきながら聞いた酒飲み話をいたします。
つまらない話ですが、よろしければおつきあいのホドを。
その中の友人の知り合いに、都内の私立進学校の柔道教師がいるのですが、彼の嘆き節に外国人生徒の定着率の悪さがあるというのです。
そこは港区内でも有名な進学校にも関わらず、インドネシアやタイなどから毎年10人ほどの留学生がやってくるうち、過半数が毎年1年以内に海外の学校へ出て行ってしまうそうす。
その理由というのは「こんな覇気のない高校生たちは見たことがない、子供をダメにしないために別の学校へやりたい」という親の判断だというのです。
学校に通わせたら、子供の目が死んでいる・・・。
うーん、こ、これは。箱根彫刻の森美術館のニキ・ド・サンファルの作品。汐留にも彼女の作品がありますな。
個性を重視してるはずの教育現場のはずが、「こんなに覇気のない」と言われるとは如何なることでしょうか。しかも荒れてる学校ならいざしらず、知ってる人は知っている進学校での話です。
わたしが教員をしていた20数年前も多分にそういう傾向はありましたが、今はなおさらというところでしょうか。
理由はいくつも挙げられるでしょうが、同じ時に出た、一見関係ないような酒飲み話をもうひとつ。
こちらはブレーデルの作品。
こちらは別の先輩の話。
何年か前のことだそうですが、電車に割り込んでくる人がいたので注意したところ、その人はまったく聞く耳を持たかったどころか、逆に開き直って威丈高な態度をとったとか。
腹が立ったので、胸ぐら掴んでドンと突き飛ばしたところ(よせばいいのに)警察を呼ばれて取り調べ。
その先輩もさるもので、事情を説明し「こんな奴がまかり通ったら社会正
義が成り立たん」と説教をしたところ、こういう風に警察に諭されたそうです。
「警察の仕事は法律を守ることで、あなたのやったことは事情はどうあれ、相手の主張によれば暴力をふるったことになります。
割り込みはいけませんが、そちらは道徳の問題になるので、警察が介入することはできません。したがって、警察としては相手を罰することはできず、反対にあなたのふるった暴力を見過ごすわけにもいかないのです」ピカソ館前にミロの彫刻が!
そう。
警察は法を遵守するのが仕事なんで、言ってることはその通りです。暴力をふるったということになると、今の世の中、申し開きできません。
ただ、担当した警官もよくわかってたみたいで、ルールに従い2人を別々の部屋において両方を上手に諭したみたいで、その場はお咎めなしということになったそうですが、その先輩は釈然としなかったようです。
教育現場というのも同じようなもの、わたしが子供の時分は、バチで子供のお尻(時には頭)を叩くような先生はいましたが、今はそれは許されませんし、また許すべきでもありません。
ただ肝心なことは暴力をふるわずに、横入りをする輩に何らかのペナルティを与えるシステムが必要なのではないかということです。
新渡戸稲造の「武士道」では、西洋のように宗教によるモラルの維持があまりなされることのない日本で、なぜ道徳が守られるかといえば、それは武士道があるからだと主張されています。
ただ、今じゃそんなことは完全に崩壊しつつあるわけで、その先輩が遭遇した警察沙汰はその典型なわけであります。
これが原因じゃありませんが、痛風の引き金になったかもしれないランチでした・・・。
そもそも横入りして注意されたにもかかわらず、自分が突き飛ばされたら警察を呼ぶほどの知恵がある、そんな人間が育ってしまうというのが問題であります。
誰でも自己チューなところはありますが、それを正当化できる知恵が自然に育ってしまうのが問題、そのために法律が使われるとすれば甚だ本末転倒な話です。
もともと教育とは自分を正当化するためにあるものではなく、最終的には本人はもちろんですが、社会に還元できる人間を育てるためのもの。
その辺りを間違えてきたのが、わが国の教育のいちばんの問題かもしれません。
後日、またこのことは記事にする予定です。
>誰でも自己チューなところはありますが、それを正当化できる知恵が自然に育ってしまうのが問題、そのために法律が使われるとすれば甚だ本末転倒な話です。
なんだか、中華思想みたいな...
こういうときは気分を変えて、白昼夢(ヤ・ラ・セ?)をご覧下さい。
外国の子どもに比べて、覇気がないのは、分かる気がします。
やはり、日本の国があまりに、能天気なまでに平和だからかもしれません。
あとは、大人が大人にはなっていないことにも原因があるかも。
親御さんは、子どもが学校さえ通っていれば・・・、試験でよい成績を取っていれば・・・、
我が子の学校の偏差値と名前だけで、安心してしまう傾向があります。
が、実際は、テストの答案を書く勉強しかさせられておらず、応用ができない子どもが
増えています。
たとえば、二年生の子が、はくせんを漢字で書け、と言われて、白線と答えを書くことはできますが、それが、白い線だからハクセンだとは考えない子がいて、驚きました。
本当に、問題週の中で、習ったことだけを理解しているのです。
こういう子が、高学歴者として社会に出ると、「菓子折りを買って来て」と上司に言われて、
駄菓子屋からお菓子をダンボール買いしてくるのも、私には、とても合点がいくのです。
生きる気力を持たせるには、日本の現状は難しいです。
あまりに恵まれていて、今あるものが、なくなることなど、子どもだけでなく、大人も考えていないでしょう。そして、それを当然、子どもにも伝えられていません。親御さんが、「そんな大きなことを考えなくても、自分の成績のことだけ考えなさい」というメッセージを発しますし。
もちろん、成績は良いにこしたことはありませんが、それを使える知恵がないのでは、成績がよくても、使いものになりません。
生きるための知恵は、日々、安穏と時間を過ごしているだけでは、備わりませんね。
自然との共存や、自分の身を守るサバイバルなど、生きていると感じる刺激がなく、唯一の刺激や、受験や試験とゲームの中だけでは、子どもたちは可哀相だと思うのです。でも、生きる教育を考える手間は、相当なので、試験で子どもの力を図り、子どもの目は益々、覇気がなくなる・・・って思うのですがいかがでしょう?
お頭さん、おはようございます!
ほ、ほんとだ。
それって中華思想じゃないか!
まさかそれに毒されてるわけじゃないだろうけど、共通する何かが??
>こういうときは気分を変えて、白昼夢(ヤ・ラ・セ?)をご覧下さい。
やらせでも良い、明らかにサプライズという表情もあって素晴らしい♪
ツイッターで拡散いたします。
麻奈さん、おはようございます!
>「菓子折りを買って来て」と上司に言われて、
>駄菓子屋からお菓子をダンボール買いしてくる
うーん。
ちょっとズレますが、似たようなこと、最近もありました。
ロールケーキでも買ってきてっていったら、なかったから買って来なかったっていうのです。
甘いものが食べたいから「ロールケーキでも」言ったんですが、「でも」のニュアンスは伝わらなかったのですね。
よく若い人に言われることに「空気を読む」、そして読みすぎるという傾向があるというのですが、それはこういった気が利かないことと真逆であるのが興味深いところです。
空気を読む、ということの選択には「能動的に自分からは何もしない」という意味があると思います。
余計な発言はしない、余計なことをしない。
それはそれで大切なことなんですが、その辺の減点法が「覇気のなさ」につながっているのかもしれません。
つづきは妻沼でいたしましょう!