新年度から週二回、お子さんに絵を教えることになりました〜三つ子の魂百まで。

新年度になりました。実は縁あって、昨日から週二回ほど、お子さんに絵を教えることになりました。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私が一番最初に職を持ったのは、神奈川県厚木市で2年間の中学校教員(臨時採用職員)生活を送ったことでした。

はからずもウン10年ぶりの“先生”をすることになったわけですが、その時とはまったく子供に対する視点が変わったことに自分で驚いています。

中学校の教員をしていた時はまだ20代で、自分と生徒の年齢がひとまわり前後しか違いませんでした。そのため、生徒にナメられまいと本気で怒ったりと、何かと粋がっていたですが、さすがに今回はそういうことはまったくありません。

もちろん教える相手が中学生から、8歳未満の子供に変わったということもありますが、それだけではありません。

当たり前の話ですが、「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、人間にはいくら幼くても人格というものがあります。

その人格というものが、教員時代に比べてなにやら見えるような気がしました。

しかしながら、そう感じたのは私が人間的に成長したのが理由ではありません。
理由は正反対。自分自身が子供の時に比べて、少しも進歩していない点があることが、この年齢になってわかったからなのです。

いや、もちろん20代の時に比べて進歩したことはいっぱいありますよ。
絵は…少しは上手くなったかな(笑)。

たとえば仕事に関しての技能的なことや、処世術みたいなことは年齢を重ねて覚えていくものですが、それとは別に人間は性根の部分では変わらないものなようです。

昨日、前の先生の引き継ぎでモビール作りをしました。

出来合いのモビールキットがあるのですが、ビーズの穴に糸を通す作業や、結び目を作る作業が小学校入学前後の子供にとってはハードルが高い。

あきらめてやらない子、黙々と作業を続ける子、先生に全部やってもらおうとする子、歌う子、難しい作業のなのに、アッという間に完成させてしまう子。

ああ、人とは最初からここまで違うものなのか!

年齢が幼いうちは、まさに素の部分が隠されずに出ます。
それを人格と呼んで良いのかどうかはわかりませんが、もとから持っているものが幼いうちはハッキリとあらわれるものなんですね。

そういえば、私も亡き父によく言われたものです。

「お前のやることは、やることなすことしまりがねえ」

瓶の蓋をキチンと閉めない、油彩の絵の具の蓋も閉めない、もとあったところに戻さない。

いやはや、三つ子の魂百までとはよくぞ言うたもの。
この子たちも、素の部分はきっと百まで変わらないんだろうね。

そんなことを思いながら、どんな大人になるのか想像したりしてみました。
とにかく楽しいお絵描きを一緒にしたいと思っています。

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