『新美の巨人キース・ヘリング』 アートと社会的メッセージ〜オリンピックの開会式は、お仲間どうしのお遊びだったので混迷したんでしょうね。

▲キース・ヘリングの作品、写真はすべてwikiからの転載です。

はじまる前までは見ないと言っていたオリンピックですが、昨日の柔道60kg級は思わず見てしまいました(勝手な奴!)。

高藤選手の金メダルは素晴らしかったですね! おめでとうございます。
やっぱりオリンピックの主役は競技であり、選手だということを改めて感じました。

開会式は最初のシーンで、芽が出る影の映像を見て「こりゃダメだ」とチャンネルを変えてしまいましたが、競技には純粋に人の心を打つものがあると感じた次第です。

さて、オリンピックの競技がひと心地ついた夜の10時過ぎから、『新美の巨人キース・ヘリング』を見ていましたが、アートのあり方について色々考えさせられました。

私個人としては、キース・ヘリングは好きなアーチストです。
ただ作品を積極的に見たことはなく、 何枚か彼の絵をデザインしたTシャツを持っていたという程度ではありますが。

番組を見てあらためて驚いたのは、彼が社会的メッセージを…特に晩年に数多く発信していたことでした。
そりゃそうだよね、最初はニューヨークの地下鉄の落書きからデビューした人ですから、それは当然の成り行きでしょう。

番組の内容は、当時蔓延していたAIDSの撲滅や、ゲイやマイノリティへの差別解消、世界平和のメッセージといった内容だったようです。キース・ヘリングは左翼がかってはいるとは思っていたけど、そういう人たちが後押ししていたのかもしれません。

ベルリンの壁にドローイングをしたり、ニューヨークはもちろん、シドニー、メルボルン、リオデジャネイロ、アムステルダム、パリなどの公共空間で、そんなメッセージを数多くの壁画にした様子を番組では紹介していました。

周知のようにキースは1990年、エイズによる合併症で31歳という若さで世を去っています。活躍した10年ほどの多忙さがこの人の寿命を縮めたのかなと、勝手に想像をしてしまいました。

番組で強調されていたのは、そんなキース・ヘリングが描いた社会へのメッセージなのですが、なんか、メディアってそういうものが好きなんだよね(アーチストもな)。

芸術に社会的メッセージを入れるか入れないかは、作り手受けての自由ですけれど、それってアートの一番重要な部分ではありません。個人的には「そっちに行くなよ」と思うのですが、それも個人の勝手ですからねえ。

まあ、ボブ・ディランのようにメッセージと作品が完全に一体化している人もいますけど、キースの場合もそうですが、そこばかりにスポットを当てる番組のあり方は「またか」という感じがしました。
(ただ、キース・ヘリングはそこを超えて、面白い作家ではあると思います)。

社会的メッセが先鋭化したものが、先の愛知トリエンナーレであり、それが拡大版になってしまったのが、今回の東京オリンピック開会式の混迷でしょう。

開会式そのものは、この目で見ていないので評価はできませんが、入れ替わり立ち替わりの辞任劇は、せっかくの五輪開会式をお仲間の遊びというノリで行ったツケなんでしょうね。ま、知らんけどな(笑)。

聞いた話ではドラクエのテーマなど、ゲームで人気の曲が散りばめられていて、曲自体の評判はわるくなかったようですが、だったら最初からやれって話です。

競技がはじまって、五輪本来の姿になってきました。
済んでしまったことは仕方ないので、残りの競技を素晴らしいものにして全うすれば、やはり「やって良かった」ということになるでしょう。それを願うばかりです。

高藤選手だけでなく、競泳の池江選手の復帰姿など、本当にそれに打ち込んできた人の姿は美しい。

まったく東京五輪に関係ないキース・ヘリングの番組を見て、そんなことを思いました。あくまで個人の感想ですが。

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