顔真卿の「祭姪文稿」〜この機を逃しては二度と見ることは出来ませんぞよ!

国立博物館の平成館で開催中の「顔真卿(がんしんけい)展」、母と弟の小暮ファクトリーで見て参りました。さすがに書家の解説付きは、よくわかりますね♪

ともかくもこの展覧会は素晴らしいの一言です!
特に目玉となっている祭姪文稿(さいてつぶんこう) は、言葉にならないほどの何かを与えてくれるものでした。入館は待ち時間がなかったものの、会場に入ってから70分待ちでしたが、それ以上に見に行く価値があるものでした。

本当は2月初旬に行く予定でしたが、中国の春慶節で大変なことになっているという噂を聞き、恐れをなして先週の金曜に延長したのですね。
ただ、春節が終わってからでも会場は大勢の中国人観光客でいっぱいでしたが、さすがに顔真卿先生には敬意を払って来ているのでしょう。マナーのわるい中国人はひとりもおらず、誰しもが神妙にこの偉大な書家の展覧会を鑑賞しておりました。

実はわたくし……拙著「堪能故宮」で、顔真卿の祭姪文稿について書いているのですが、本物を見るのは初めて。光に当てると劣化するため、台北の故宮博物院に行ってもまず本物は見られません。

ですから、今回の「祭姪文稿」の公開はおそらくは最初で最後くらいに思った方が良いでしょう。それを知っている台湾人、中国人はわざわざこれを見るために日本に来ている人も多いようです。

▼さて、せっかくですので「堪能故宮」に掲載した拙文の全文をここに掲載いたします。自分で書いた文章ですが、読み返してみたところ殆ど忘れていましたが(笑)、これを読めばこの書の概要はほぼわかると思います。
またマンガによるダイジェストも同書から転載致しました。合わせてお楽しみいただければ幸いです。

続きは、また後日。ともかくも 顔真卿の「祭姪文稿」〜この機を逃しては二度と見ることは出来ませんぞよ!

■武人書家・顔真卿

 中国書道史において王義之と並ぶ存在といえば、顔真卿をおいてほかにないでしょう。王義之は4世紀・東晋の時代の人で、顔真卿は8世紀・唐の時代の人ですから、両者の間には400年ほどの開きがあります。しかし、両者に見られる文字のねじれや、字の造形などを見る限り、顔真卿は王義之の影響を深く受けたと考えられています(もっとも中国はもちろん、漢字文化圏の書家で王義之の影響を、間接的にでも受けていない人などおりませんが)。

 ただ、顔真卿は当時流行していた院体と呼ばれる、王義之風の書体に対しては、かなり反発していたようです。

 こちらの拓本「顔氏家廟碑」をご覧ください。

武官でもあった顔真卿の剛直な性格が伝わってくる、雄渾な楷書ですね。筆峰をまっすぐに下ろす粘り強い筆さばき。四方のバランスが取られ、神経の行きとどいた気品溢れる、まさに書に人となりがあらわれた逸品です。

 意外なことですが、こうした水平垂直に組み立てられた方形の楷書は、それまでになかったものなんですね。顔真卿の功績は何と言っても、こういった楷書のスタイルを完成させたことにあります。

 顔真卿が、王義之を偉大な先達として尊敬していたのは間違いないと思いますが、彼の性格上、それに追従する当時の流行がイヤだったんでしょうね、きっと。

 「書を学ぶなら、顔に学べ」と言われるほど、品格に満ちた顔真卿の書体は後世の手本となり、さらには宋朝体、明朝体といった活版印刷の見本になって行きます。今、みなさんが読んでいる、この文字も、もしかすると顔氏直系の書体かもしれません。

 顔真卿は楷書のスタイルを完成させただけでなく、草書や行書の名人でもありました。こちら「祭姪文稿」をご覧ください。

 武人だった顔真卿は、「安史の乱」(※1)に、朝廷側の司令官として参戦しています。その時に顔真卿は、何と兄と甥を目の前で惨殺されてしまうのです。この「祭姪文稿」はその義憤と追悼を筆に綴ったもの。見ての通り、随所に訂正や抹消の跡がある、いわゆる草稿ですが、塗り潰した墨などから、彼の心の高ぶりが直接伝わってくるようです。

「父(顔真卿の兄)は賊の手に落ち、子(甥)は死に、城は傾き転覆した。天がこの災いを悔いなければ、誰がこの苦しみを引き受けようか」

 書にはそう綴られ、最後の1行……「嗚呼哀哉」では、草書というより狂書のように筆は曲がりくねり、すでに抑えがきかなくなっています。まさに書というものが、心を映し出す鏡であることを顕したような傑作と言えましょう。

 ただ、このように剛直そのものな性格ゆえ、顔真卿は上とソリが合わないこともしばしばでした。

 安史の乱で功績を立て長安に戻ったものの、顔真卿は時の宰相と宦官から激しく妬まれてしまいます。刃物を使わず人を貶めるのは、宮中の人間がする得意技――最後には反乱軍の士・李季烈のもとに特使として送られることになり、そこで捕らわれの身となります。

 それにしても、いくら気にくわないヤツだからといって、功績のある軍人を敵のもとに送りつけるんですから、当時の朝廷の腐敗というのは凄まじいものだったのですね。まあ、不祥事を起こす会社も同じようなことがありますから、古今東西を問わず、組織がダメになる時というのは信じられないことがあるものです。

 顔真卿を惜しんだ李季烈は、幾度となく自分の部下になるよう説得しましたが、顔氏は頑として聞かず、捕らわれること3年でとうとう殺されてしまいます。時に顔真卿、74歳の老将でした。

 顔真卿を送りつけた時の宰相と宦官たちは、顔真卿が決して寝返らないことを知っていたのでしょう。まさに「祭姪文稿」同様、義憤にかられる話に違いありません。

※1 唐の中期・玄宗皇帝の時代、安禄山@あんろくざん@と史思明が起こした(755-763)反乱。玄宗は退位、乱は鎮圧されたが、節度使による地方分権化が進んだ。

 

 

 

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