スコセッシ監督の「沈黙」〜神は沈黙していなかった

マーチン・スコセッシ監督作品「沈黙」見てきました。
映画の感想は次回にまわすことにして、今回の記事は映画を見て思ったことを書くことにします。

↑ さて、その前にこちら上の絵。
以前、クリスチャンのクライアントの依頼によるバベルの塔、その制作途中の様子です。「バベル」は旧約聖書の話なので、当然キリスト以前の物語。

そこに「力強い十字架を」というリクエストは、想像の世界とはいえ意に反するものがあり、躊躇があったのですが、やはり気の乗らない仕事というのは、続くものではありません。

このバベルの絵はクライアントの資金の問題で頓挫し(画業自分史以来、初めてでした)、その方の手を離れ私のもとに戻ってきたのです。

もっとも、そもそも旧約聖書とキリスト以降の新約聖書というのは、本来整合性のあるものではありません。 旧約聖書はもともとユダヤ教の神話と教典であり、新約聖書は同じ地に生まれたキリストとその使徒たちの物語と教典であります。

本来は別の教典である旧約聖書と新約聖書を強引に結びつけたことが、キリスト教徒たちを大いに悩ませてきました。

三位一体、父と子と精霊。
絶対神デウス(呼び方はいろいろあり)の子がキリストであるという、実に不思議な論理に行き着いたのが、現在のキリスト教だとわたしは考えています。

もっとも、別の神話どうしを結びつけるなど、インド・ヒンドゥー教やわが国の神道であれば朝飯前の話。
特に八百万の神を尊崇する日本人にとって、ドウってことのない話なのですが、厄介なことにキリスト教というのは基本的に一神教です。神が言うことには整合性がないといけないのですね。

彼らの神は天からダイレクトに声をかけますが(声が聞こえないので、それを沈黙と感じるクリスチャンもいる)、私たちの神はそこかしこにいます。
山や川はもちろん、鍋やフライパンの中にもいるし、時には人も神になります。

単語は「神」でもキリスト教の神と、日本人の言う神は似て非なるもの。

正月初詣には神社に行き、結婚式を教会で挙げ、お葬式を寺で行う日私たちを、日本人自ら「無宗教」と言う人がいますが、それは違います。

日本には神さまが大勢、八百万おわすのです。

宗教にいい加減と自ら言う大抵の日本人が、もし強烈に拒否をするとすれば「特定のこの神さま以外、信じてはいけない」ことではないでしょうか。
宗教の勧誘に生理的不快感を得る人は、その点にあるのだと思います。

日本にキリスト教が根付かないのは(人口の1%未満)、まさにそのことでしょう。

どの宗教もそうですが、教会という宗教組織は、神が本当に言ったわけでもないことを人間のルールで統率します。だからこそ、クリスチャンならばこそ「神は沈黙している」と思いやすいのかもしれません。

映画を見て思ったことに加え、年を重ねて思うことに「神さまは決して沈黙などしていない」ということでしょうか。

次回は、普通に映画の感想を申しあげます。

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