昨日、丸の内ピカデリー1で「J・エドガー」を見てきました。
終わったあとで「いや~つまんない映画だったな~」というおじさんがいたり、
「何度も泣いちゃった」という女性がいたり、見る人によってものすごい温度差でしたが、
わたくしの感想は、やはりさすがはクリント・イーストウッド監督!
138分の長尺を堂々と見せてくれました、というところです。
それにしても、世間にはイーストウッド作品が苦手という人が少なくありません。
なぜなんでしょう?
・・・実はかく言うわたしも、ごく最近までイーストウッド作品が苦手でした。
それというのも、この人の作品・・・
「ミリオンダラー・ベイビー」では、安楽死。
「ミスティック・リバー」では子供時代の虐待経験。
「チェンジリング」では子供の失踪と幼児殺しなど、
普段、人があまり見たくないと思っているものをアッサリ見せてくれるからでしょう。
ところが不思議なもので、イーストウッド作品は自分の中で何か苦しいことがある時ほど、
苦しいブブンを吐き出してくれる働きがあるようで(癒しとは違う何か)、
この「J・エドガー」もまさしく、そういうジャンルに入る作品です。
(ノレないと、逆に苦しいかも)。
さて、ディカプリオ演じる「J・エドガー」のフーパー長官といえば、
わたしが子供の自分に見ていた「FBI/アメリカ連邦警察」といかいう番組で、その名を知った記憶があります。
今回、J・エドガーを見てわかったのですが、あれはフーバー長官の差し金だったのですね。
フーパー長官メディアを通じて、FBIと自分のプロパガンダを行っていたというわけです。
この少し前、クリント・イーストウッドは「ローハイド」や「荒野の用心棒」などで売り出しはじめたばかり。
リアルタイムでよく知っていた人物なのでしょう。
物語の後半、ジョンソン、ニクソン大統領という、私の子供の頃の記憶とも合致する人物が登場します。
驚いたのは、そんなに前の時代じゃないのに、科学捜査というものがそんなに信用されていなかったこと。
フーバー長官がそれお取り入れたこと。
この時代・・・資料、ファイルの整理が系統だって行われおらず、それを取り入れたのがフーバー長官だったこと。
まだ、左翼組織によるテロに対し、取り締まりのかたちがまだ形成されていないなど、
この時代、米国の社会システムが、まだ現在のように管理された姿になっていなかった点が興味深いところです。
そういった社会システムの形成にフーバー長官が貢献したことと同時に、
ご本人は現場にいなかったのに、いたような顔をして、
さらに自分の手で逮捕したような顔をしてことなど、
あくまでイーストウッド監督の目はニュートラルです。
この人、一時ハリウッドでは「右翼」とか「タカ派」と目されたことがあるのですが、
実はニュートラルな視点を持った人で、
そこがイーストウッド作品を苦手にする人を生んでしまう理由なのだと思います。
「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」のように、米国側と日本側から見た両方の視点で、
2本の映画を作ったというのは、その典型と言えます。
映画というのは勧善懲悪とか、メッセージ性といったフラッグをはっきりさせ、
見る人にそれを訴えるのが普通です。
ところが、イーストウッド作品のいくつかは、
生きていく上での不可解な部分や、人間の矛盾した面を丸ごと観客に見せています。
半身不随になった女性ボクサーを安楽死させるという、
「ミリオンダラー・ベイビー」の何ともいえない後味のわるいラストや、
行方不明になった息子を一生探す「チェンジリング」のラストは、まさにそういったものに違いありません。
ドストエフスキーが自らの作品に回答を出してないように、
イーストウッド作品もまた、自らの作品に答えを出していないのですね。
それにしても演技には定評があるディカプリオですが、
映画の最後で土左衛門みたいな姿で出てきたのは、どうなんでしょう。
「タイタニック」からのファンはさぞ失望するでしょうが・・・。
イーストウッドはまだ売れる前のジム・キャリーや、
「バーン・ノーティス」のジェフリー・ドノバン(この映画にも出てます)を見いだすなど、
役者の選球眼にも定評ありますが、
今回の注目はフーバー長官の右腕役を演じていた、アーミー・ハマーでしょう。
「ソーシャル・ネットワーク」にも出ていた役者だそうです。
写真は有楽町、国際ビルB1Fキッチン・マ・メゾンのフィッシュ&チップス。
同じ階にタニタ食堂があるせいでしょうか、この日も満員でにぎわってましたが、ホントに良い店ですね。
私の絵も「オシャレな絵があります」と米されていて満足(ヤラセじゃないです!)。
値段もお手頃なので、ぜひ一度足をお運びくださいませ!
いつでも道半ば
>イーストウッド作品もまた、自らの作品に答えを出していないのですね。
普通誰しも、答えは出ないのかも知れませんが、クリントは出しつつありますか?
ダーティーハリーのハリー・キャラハンは組織の中の一匹狼(≠逸れ狼)で、
銃による素早い事件の解決で世の中に貢献していた。
然し、時は流れ、グラントリノでのウォルト・コワルスキーは、
もう組織には属していない逸(はぐ)れ狼なので、自分独りでただ生き永らえていたが、
少年のために長くない余生を銃に拠らない、相手を殺傷せずに、
法律という社会基盤を通しての事件の解決と終息、小さな町の安寧を取り戻した。
少年は人生での何がしか大きなことを感じた。(以後の人生で思案するでしょう。)
ウォルトは、勿論無駄死にではなく、自己の完結を図れたので至福でありましょう。
これは言うまでもなく、クリントの心の変遷の軌跡ではないでしょうか。
また、次回作が楽しみですね。
ハイッ、それでは、サヨナラ、サヨナラ、....サヨナラ。
マイノリティ
お頭さん、おはようございます!
おお!
お頭さんのポリティカルな話題以外のご参加お珍しいですが、大歓迎です♪
それにしても「グラン・トリノ」のことをすっかり忘れていましたが、まさしく御意にございます。
たしかにここでは、かなりはっきり答えを出してます。
自分が主演する場合は、そういう傾向があるのかも。
イーストウッドは人種に関してもニュートラルなんですよね。
平等主義じゃなく、ニュートラル。
ダーティーハリーの相棒はマイノリティとか女性だし、
キャラハン自体がアイルランド系。
コワルスキーという名字はポーランド系ですね。
グラン・トリノ自体がそういう映画だし。
ともかくも私が、今もっとも尊敬する映画人のひとりです。
まだまだ新作をいっぱい作ってほしいな。
お久しぶりです
イーストウッド作品、わたしも好きですよ。
わたしもニュートラルな視線で
物事を見ていたい。。。
人によりけり
二夜さん、おはようございます!
お久しぶり、しかも食べ物以外の話題。
もしかしたらフィッシュ&チップスに誘われて来たとか(笑)。
>わたしもニュートラルな視線で
人によりましょう。
二夜さんがそれしたら、つまらないと思います。
ところでイーストウッド作品、何がお好き?