西尾幹二氏の「天皇と原爆」読了しました。
あ@花さんのススメで読んでみましたが、これは大変な名著ですね。
近頃になく感銘を受けました。
西尾幹二氏はニーチェ研究でも知られるドイツ文学者ですが、文字通り知の巨人であり、本書ではその碩学を遺憾無く発揮してるばかりか、ひじょうに読みやすく書かれているます。
「海賊とよばれた男」にもあるように、先の大東亜戦争が石油による戦争だっというのは周知の事実ですが、西尾氏は、欧米の植民地時代まで時間軸を伸ばし、かの戦争はアメリカと日本の宗教戦争だったという見方をしています。
それは天皇を中心にしたわが国の多神教と、キリスト教一神教の戦争という意味であります。もちろん、それが戦争の物理的原因というのではなく、戦争の根底にあったメンタルなものという意味であります。
ここで肝要なのは、わが国の方では、かの大東亜戦争戦争が宗教戦争のつもりはさらさらないということです。
ところが米国側の方は唯一神を頑として受け入れない日本人に対して、苛立ちと憎しみを感じていたというのです。
さて、以下は本の内容とは少々ズレるところはありますが、よろしければお付き合いのほど。
私たちは日本人というものが、宗教に無関心、無宗教だということを変に信じています。しかし口では「無宗教」と言いながら、正月には初詣に行くし、お社やお寺の前ではキチンと手を合わせる。
挙げ句の果ては結婚式を教会で行い、平気で祝福をするという、一神教の人たちから見ると悪魔の所行に等しい理解に苦しむ行動をします。
これは西洋人の視点から言えば、明らかに無宗教ではなく「多神教」であります。
あちらの無宗教はatheism、無神論であり、「神はいない」とハッキリ否定します。ドストエフスキーの小説にも出てくるような、激しい無神論者は私たちが「無宗教」というのは明らかに違います。
「天皇と原爆」の中には、ある人が米国で宗教について尋ねられたくだりがあります。「何の宗教を持ってるのかね」と聞かれ、「ありません」と答えたら悪魔でも見るような顔をされたというのです。それで、「本当に何も宗教を信じてないのかね?」と聞かれ、仕方なく「仏教です」と答えたら、相手は安心してニコニコしたというのですね。
無神論者は悪魔視されるということですが、これは日本ではありえないことで、ある意味一神教の裏返しとも言えましょう。
フランシスコ・ザビエルが日本に布教へやってきて、およそ470年になりますが、日本におけるキリスト教徒の数は一向に増えません。
明治時代、人口の1%だったクリスチャンは今でも横ばいと言いますが、それはひとえに日本人の一神教ぎらい、原理主義ぎらいによるものであります。
インドではカーストの苦しみから逃れるために、クリスチャンに改宗した人は多いですが、フィリピンや韓国などは、そういう理由以外で比較的容易にキリスト教化が進みました。
ところがわが国ではキリスト教徒の人口は一向に増えない。
ひとえにこれは一神教に対する拒否反応に加え、日本には古来より天皇という神の存在があったからだというのですね(ただ、天皇の存在に関しては長くなるので、今回は割愛)。
これは本に書かれてないことですが、特定な宗教を信じてない人の中には、新興宗教などに勧誘されると「宗教だ」と引いてしまうのも、そんな一神教に対する拒否感かもしれません。そんな「宗教」に引いてしまう人も、墓参りには行くし、初詣には行くのですから。
ザビエルもアメリカも頑としてキリスト教一神教に染まらない日本人に、苛立ちを感じ不気味さを感じた。それが米国側の憎しみとなって、日本とアメリカが戦争するように方向づけたとありますが、なるほど腑に落ちる話であります。
なわけでこちらは、以前ボツになった仏教本の企画書に使ったマンガです。
いずれ復活させてみせますが、仏教オンリーとはいかんだろうなあ。
今回は本の一部しかご紹介できませんでしたが、「天皇と原爆」は日本人なら一読の価値があります。ぜひお読みくださいませ。
自分も天皇の存在がその理由だと思っていたことがありました。
しかし,貴族,武家はともかく,一般庶民にとって天皇は御所におられるんだろうけど,意識としてはそれほど強いものではなかった。いるのかいないのかすら,どうでもいい存在であっただろう,という説を読みました。帝ですら多神教の神の一人だったのだろうと,いまは思っています。 天皇は一神教がはりこめなかった理由のほんの一部にすぎなかった,日本人の心の奥底にあるモノはなかなか,コレと言い切れるものではないでしょう。
仏茶さん、おはようございます!
お早いお越し、ありがとうございます。
>日本人の心の奥底にあるモノはなかなか,コレと言い切れるものではないでしょう。
ご説の通りに思いますが、そう思われるならなおさら本書をお読みください。「天皇と原爆」においては、原因を白と黒に分ける二元論的な見方を徹底的に疑問視しています。
ものごとの事象は原因が複合的であり、数々のものが複雑に絡み合っている場合がほとんどです。そういう意味では、天皇の存在は大きかった人もいれば、そうでない人もいたでしょうから、仏茶さんの見方は正しいと言えます。
ただ何か原因を考える場合、なにか大きな柱を探すことは重要です。人というのは、その柱を見つけると、それがすべてに思いたくなりますが、実際はそうではないということですね。
ただ、天皇の存在は大きいことも確かでして、時代によるそのバランスの変異も書かれてます。ぜひご一読を!
こんにちわ。
この漫画、没から復活を遂げさせていただきたく存じます。
ちは。私の休暇もこの本のおかげでぐっと充実したものになりましたよ。
一神教と多神教ですけどね、おおざっぱにいって一神教が生まれる土地って自然が厳しいよね。日本みたいな土壌で多神教が生まれるのは自然だし、太陽を一番上の神様に持ってきたところも自然だと思いますが。よそも太陽崇拝はあるでしょ。画伯の方が詳しいだろうね。
タイは日本より敬虔な仏教国ですが、街のあちこちに祠みたいなのがあります(派手)。それこそ東屋でやっているマッサージ屋さんみたいなところにも祠があります。仏様が奉ってあるのかと思うとそうではないそうで、古代の神様だと言います。やっぱり仏教が入ってくる前に土地の神様を奉る気持ちが自然にわいてきて、それが今神棚を奉る日本人と同じようなかたちになってるんだと思うよ。物なりがいいところでは、自然への感謝の気持ちが当然わいてきますわね。
あ、それはそうと西尾氏の著作を読むと、平清盛時代の皇室(だか王室だか)がつまんなかった理由がわかりますね。民と皇室との関係は世につれて変化したのでしょうが、権力と権威を分けたことは賢い誇るべきシステムだと思います。
ではまた。
お頭さん、おはようございます!
もちろん、そのつもりです。
あ@花さん、おはようございます!
そしてお帰りなさい。
>おおざっぱにいって一神教が生まれる土地って自然が厳しいよね。
まさにそうですね。
砂漠や氷ばかりの何もないところにいると、神様の選択肢がなくなるというのが実際のところでしょうね。
アッラーもアラブ部族の1つの神さまだったそうですが、イスラム教はもちろん認めていません。原理主義の原点とでも言うべきか・・・。
>仏様が奉ってあるのかと思うとそうではないそうで、古代の神様だと言います。
タイ人のメンタリティは日本人に近いと言いますが、そんなところにもあるのでしょうね。
ヨーロッパでもイタリアなどはローマ神話の神さまがそこかしこにいて、最初にキリスト教を取り入れながら、昔の神さまが生きてるところなどは、欧米の中では日本に近いものを感じます。
西尾氏の著書、「国民の歴史」がもっとも知られてますが未読です。
今日から早速読んでみようと思っています。
良い本をご紹介くださいまして、ありがとうございました。