友だちのススメで購入した一冊、読了いたしました。
いわゆる面白いという本ではありませんが、私にとっては普段から感じていた「自由」に関する疑問を言葉で整理してくれた本であります。
そもそも自由というものは、人間社会が存在してはじめて意味のあるものですから、「自由」という考え方が生まれた時点で、おのずと制限されるものであります。
本書はそのことを、「なぜ人を殺してはいけないか」「援助交際はなぜいけないか」「自己責任の範疇とは」といった、卑近な例をあげて説明しています。
アマゾンの書評には「答えを言っておらず不満」という声もありましたが、そもそも、「自由とは何か」ということに答えはありません。ここまで書いてあれば十分ではないか、むしろハッキリした答を言うこと自体、「自由」という言葉に矛盾するように思えました。麻布在住のイタリア人宅でのホームパーティですが、食卓のレイアウトひとつとってみてもさすがにセンスが良いですわん!
よく「健康のためなら死ねる」なんてことを言いますが(冗談で)、 人間というのは、冗談でなしにしばしば手段が目的にすり替わることがあります。
オスプレイに反対するあまり、風船でジャマして飛行を危険にさらす。
原発に反対するあまり、原発事故が別に起きてほしいと願う。
自由をジャマする者は殺す。
これらは、この本にも記されてるように、フランス革命後にかのロベスピエールが行った、革命に反するものを粛正したことに似ています。
というか、完全にロベスピエールの系譜と言っていいかなあ。
「自由」にしても「平等」にしてもそうですが、これらが手段ではなく目的になると、それこそ「健康のためなら死ねる」ような本末転倒な話になりがちです。
「なぜ人を殺してはいけないか」ということも、人を殺すのも自由。
「罪と罰」のラスコーリニコフではありませんが、以下のような論理にすり替わってしまうこともあるわけです。
「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」
「選ばれた天才は、新たな世の中の成長のためなら、
社会道徳を踏み外す権利を持つ」
ともかくも自由というのは無制限ではありません。
自由の範囲をいくら広げようとしても、人間社会で生活する以上はそこで止まる壁があるし、またそういう壁は人類は共存するのに必要です。
興味深かったのが、自由を謳歌していたと思われる古代ギリシャには、当然ながら「自由」と言う言葉はなく、代わりに「良い生活」という意味の言葉があったんだとか。
うーん。
こっちの方が、間違って人を殺すヤツがいなくていいかもしれませんね。