京都美庭観察私記2

時を超える庭/曼殊院
 日本庭園のおもしろさは、そこの置かれている石組みや砂紋、刈り込みなどが、見る者の想像力によって森羅万象の姿に見立てられ変化することだが、私にとって曼殊院の庭はそれ以外にも特筆すべきものがあった。確かに日本庭園に限らず、あらゆる表現において、そこに記されていない、そこに描かれていないのに感じられる何かは、目で見るものよりむしろ大きな意味をもつことがある。しかし、曼殊院はそれに加えて、時間の流れを楽しむという幸福を味わえたのである。

 曼殊院の庭から広がるイメージ

舟に見立てた低い欄干(らんかん)の前に座り、庭をしばらく眺めていると、はじめはマニュアル通りに海や滝、蓬莱山(ほうらいさん)の姿が見えてくる。ところがそのうちに、なんとも説明しがたい奇妙な時間の流れが支配されてくることに気がついた。
鶴島に亀島、石橋に橋挟石(はしばさみいし)……見ているうちに、その意匠は大海原となり、島や大陸へと変化して見えてくる。だが、ある瞬間、枯山水はぴたりと時を止めて、はじめに見えた石組みや刈り込みに戻るのだ。
そして、すぐに庭は再び動きはじめ、今度は別のイメージへと変化する。そそり立つ枯れ滝から瀑水がしぶきをあげ、峡谷を流れ落ち、大河から大海へと旅を続ける。またしばらくすると、庭は動くのを止めて、元の石組みへと戻っていくのだ。
この繰り返しこそが、日本庭園の醍醐味かもしれない。連続し変化するイメージの反復は頭の中で咀嚼されると、いったん元に戻り、別の姿に生まれ変わり、新たな映像へと移ろいはじめる。それはひらがなやアルファベットを凝視しているうち、文字が意味を失い、またすぐに元の言葉に戻る現象に近い。もちろん、こちらの方がずっと複雑であるけれど。
曼殊院は人に語りかけてくれる庭であり、今回の京都訪問で私が一番好きになった庭でもある。

邯鄲(かんたん)の夢/詩仙堂と醍醐寺三宝院
 曼殊院からほどなく歩くと、詩仙堂の小さな表門がたたずんでいる。これは江戸初期の文人・石川丈山(じょうざん)が余生を陰棲(いんせい)した庵といわれるが、詩仙堂の人の話では、すぐ近くの修学院に身を沈めていた後水尾院(ごみずのおいん)を監視する目的があったという。監視する方もされる方も造園に腐心していたというのだから、幕府も何を考えていたのか余計な心配をしたものである。
ただ歴史的には、徳川家光が幕府の力を強めた時代でもある。権力の頂点にあるものの慎重さで、半ば世捨て人だった後水尾院、そして丈山にも気を許さなかったというのが本当のところだろう。

漢学を修めた丈山の趣味なのか、枯山水に見られる石組みは影をひそめ、皐月(さつき)の刈り込みが島のように薄香色(うすこういろ)の砂地に浮いている。不変の石組みを用いず、移ろいゆく皐月の刈り込みを主役においているせいか、ここには禅寺にはない、ある種の哀しさが感じられる。権力の中枢に少しでも関わった者が持つ無常感とでも言うのだろうか。(丈山は元は武人で、三十三歳の時、大阪夏の陣の軍律違反から、家康の逆鱗に触れた)。
変わりゆく世の中を生き抜き、ようやく詩仙堂にたどりついた丈山が、自分の好きな中国の理想郷を庭に見立て、余生をここで過したのだろう。そんな無常感と哀しみが、この庭にはほのかに漂っている気がした。

形式はまったく異なるが、醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)も、同じ意味でさらに哀しみを感じさせる庭だ。ここは秀吉が自ら設計した庭で、「醍醐の花見」でも名高い名庭である。
伝説の守護石……現代でいえばドラゴンボールにあたる藤戸石を中心に、数々の名石が収まり、桃山時代の屏風絵や絵巻物のような豪華な庭園になっている。
しかし、その奥に流れるのは、繁栄の後に待ち受ける没落の影である。庭が美しく華やかであればあるほど、哀しみは深く影を落としていく。この世の頂点を極めた秀吉も邯鄲の夢か、自分の死後迫りゆく豊臣家の滅亡を予期し、苦悩の日々を送っていたに違いない。

そいえばヨーロッパの例になるが、ウィーンのシェーンブルン庭園も姿形こそ違えど、繁栄と没落の同居する庭だった。ハプスブルグ家が過した宮殿のある広大な庭園には、ローマ遺跡の石彫や円柱、アーチを実際に持ってきて、廃墟風な装いを施して、あちこちの置いてある。ゴージャスな宮殿を見たあとでは何とも哀しい限りで、その後のマリ-・アントワネットの運命やハプスブルグ家の没落を象徴するようでもある。

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす    芭蕉

仏の宿る庭/円通寺
 哀しみというよりは「もののあはれ」という表現がぴったり合うのは円通寺(えんつうじ)の借景庭園だろう。ここも不思議な時の刻み方をしている庭である。それはまるで滝の冷たく澄んだ水に体を打たせている緊張感によって、一秒が十分にも一時間にも思える時を意識できるのである。

 比叡山を借景にした円通寺庭園

 

西に見える比叡山を借景に、小さいながらもスケール感のある庭園の方丈へ入ると、十二、三人ほどの拝観客が皆、正座をして庭を向いている。これは前にいた客につられて正座をしたのだろう。ちょうど座禅を組んでいるような厳粛さと清浄な空気が、庭と方丈を支配しており、それが何とも心地よかった。

この庭園は借景の比叡山が圧倒的なため、石組みや木立、生け垣を何かに見立てるという意味はさほど大きくない。しかし、ここでは庭と自分が対峙し、たがいに問いかけ語りかけるという禅寺らしい関わり方ができる。

円通寺は後水尾院が山荘として建てたものだそうで、最初は比叡山も見えず、庭の苔も後から生えたのだという。庭園の場合、さまざまな人の手が加わっていて、それが何代にもわたるため、随分変化するようだ。銀閣寺の向月台や銀沙灘は後世のものだというし、小堀遠州作の南禅寺金地院(こんちいん)のように、最初からコンセプトのはっきりしたものでも、当時とはかなり違っているという。
庭は生き物であり、時代によって新たなシンボルが加わり、その見方も変化していく。その柔軟さとみずみずしさが、いわば日本庭園の魅力だろう。

それにしても昔の人は、庭ひとつに何という労力と智恵を費やしたことか。その奥の深さと、京都という土地の持つふところの深さに、私はただ頭が下がるばかりだった。

京都美庭観察私記は2部屋です
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