京都美庭観察私記1

(DC CARD情報誌・ザ・カード1997年6月号/庭へのいざないより)


庭が語りかけるもの
 京都の社寺を回ると、いつもながらその巨大感に圧倒される。物理的に大きいだけではなく、訪れるものを宇宙へ誘うようなスケール感がそこを支配しているのだ。
日本庭園は仏教的な宇宙観を表すというが、庭というのは洋の東西を問わず、自然や宇宙を限られた面積の中にどう表現するかということに興味がおかれている。乱暴な分け方だが、西洋の庭はアダムとイブの楽園(パラダイス)を再現し、日本庭園は仏の世界を再現しようとするケースが多い。

 私が京都でいくつかの庭園を見て興味を抱いたのは、そんなシンボルがいくつも重なり合い、それが自由なイメージとなって変化していることだ。
「見立て」と呼ばれるこれらを知ることは、さほど難しいことではない。添乗員の説明や、据え付けのスピーカーから流れる説明でおおむねのことは知ることができる。少々興ざめではあるが、知らないことがわかるのは良いことだ。

 だがいくつもの寺院や庵の解説を聞くと若干の不満も出てくる。わかるのは通り一遍のことだからだ。もちろん解説が悪いのではない。解説で伝えられることに限界があるのだ。

たとえば竜安寺の石庭だが、石の数は十五個だという。そして、どの位置から見ても、すべての石を見ることはできない。それは15という数は完全を表し、人間が完璧であることはありえないことを象徴するというのだ。これは確かに重要なシンボルの説明だが、往々にして私たちはその知識を得たことで満足し、そこで思考が止まってしまうのである。
造園家に限らず、まともにものを作る人間は、何か手がける場合、解説ひとつで済んでしまうほど、単純な仕掛けをする場合は少ない。石ひとつの配置にしても、複数の見方や解釈ができるように作るはずだ。見立てるものが多くなるほど、イメージは交錯し、庭という作品は膨らみ、その世界や宇宙観を無限に広げていく。

 それは学校の試験のように、解答があるわけではない。見る人や見る時間によって、庭が語るものは何通りにも広がっていく。そして、やはり心ひかれるような庭園というのは、そんな仕掛けも複雑であり、解答のない謎かけが幾重にもなって小宇宙を構成しているのである。



旅する庭/大仙院と龍源院 
大徳寺大仙院パノラマ図 
  興味深い造りをしていたのは、大徳寺の大仙院である。ここの枯山水は渡廊(わたりろう)を進むにつれ、眺めがドラスティックに変化する。この方丈東庭は山水画の世界を再現してといわれているが、私にはどちらかというと絵巻物に見られる物語性が感じられた。

 峡谷を渡った水流は、瀑布となり断崖絶壁を縫いながら大海へ向かう。荒波をくぐり抜ける舟の物語という仕立てで、私には禅のイメージより、もっと華々しい世界が感じられた。それはゴージャスといってもよいほどで、舟石、亀甲石、沈香石、不動石、観音石と、一つ一つに名前がつけられた石の数々は実にバラエティーに富み、それが砂紋の上に所狭しとひしめいているのである。方丈東庭を抜けると突然、庭の姿は椿と盛砂(もりずな)だけの庭へと変わり、さらに奥へと進むと盛砂が二つ並べられているだけの庭に変化する。禅でいう「無」の表現なのだろうか。
私はふと『北野天神縁起絵巻』で、絵巻の部分の最後が白紙になっているというのを思い出した。美しい天人が醜く衰えていく姿を描いた、いわゆる天人五衰で、そのあとが白紙になっている謎の部分である。
ただし、深い絶望感に満ちた天人五衰の白い部分に比べると、大仙院の枯山水は不思議とそんな雰囲気はみじんもない。設計したとされる古岳宗亘(こがくそうこう)禅師(相阿弥説もある)の才気と自信がそこに満ちあふれ、骨太で雄渾な作品になっている。

 大仙院に限らず、禅寺の枯山水は私たちが思っているより、はるかに情熱的で壮麗だ。同じ大徳寺内の龍源院(りゅうげんいん)もそんな意味で印象的だった。中でも目をひくのは竜吟庭(りゅうぎんてい)で、そこはびっしりと杉苔に覆われている。この杉苔というのは、コケというより小さな草のような姿をしている。それが無数の集合体になって敷き詰められると、不思議な色彩をかもしだす。
苔の細かい凹凸は、光が差し込むと乱反射し、見る角度を変えるたびキラキラと緑色が偏光して輝く。大海原のうねりにも似た庭の起伏が、彩度の高いグリーンの乱反射をより複雑な光りに変化させるのだ。すると竜吟庭の小さなスペースが、天体の動きを表しているように見えてくる。
庭とはこんな小さい空間でありながら、私たちの意識をずいぶん遠くまでトリップさせてくれるものである。

装飾する庭/慈照寺(銀閣寺)
 京都の人は一筋縄ではいかないことで有名だが、タクシーに乗ってもそれは同様である。銀閣寺の庭をつかまえて「そうどすなー。金閣寺よりちょっとはマシですかいなー」となかなか辛口である。
さて、銀閣寺の庭を歩いてみると、ちょっとはマシどころか、どうして見るものの多い美庭である。詩仙堂(しせんどう)、曼殊院(まんしゅいん)のような味わいは少ないが、起伏に富み、見ていておもしろい庭園のひとつといえる。

 ここはいつもながら観光客でいっぱいで、それも外国人ツーリストに人気がある。理由はいろいろあるだろう。有名なこと、地の利が良いこと、日本的なイメージが満喫できることなど。そして、この庭には西洋の芸術が持っているような量感がそなわっている。
中心になる造型物……有名な観音堂と白砂で築かれた向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんさだん)のボリューム感と存在感は、日本庭園に築かれているものとしてはあまりに圧倒的である。アップダウンによって景色が千変万化する池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の造りも、そういった量感をいっそう盛り上げているようである。
ここでは山水画の世界にある、筆のかすれなどから深山幽谷をイメージさせる見方はしない。少々の雨風ではびくともしないという、巨大感のある向月台と銀沙灘は力強くビルドアップされ、観音殿の前の空間にでんとましましている。奈良の大仏が好きな私は、この砂の造型物が大好きだが、「ちょっとはマシ」と評する人の気持ちもわからないではない。
ここはゴールデンウイーク中、夜間のライトアップがあったらしいが、これが竜安寺の石庭だったら、きっと企画は通らなかったろう。間の妙、空間の妙によって構成された枯山水では、持っている要素がイルミネーションによって吹き飛んでしまうに違いない。だが、銀閣寺の場合なら、ライトアップがさぞ美しいことだろう。

 ちなみに岡本太郎はこの庭が大好きだったらしい。さらに彼は満月の下で銀沙灘を眺めてみたいと述べているから、生きていて銀閣寺のイルミネーションを見たら身を震わせて歓喜したかもしれない。そんな意味で、私はこの庭が一見幽玄な趣きをたたえているようで、実は通俗的な華麗さと柔軟さを持ち合わせたアートだと考えている。
余談ながら、ゴッホやマネ、あるいはクリムトのような日本趣味の画家たちがこの庭を見たらどうだろう。錦鏡池(きんきょうち)に映った観音殿と松林のさまは、クリ無とが風景を描くときにもちいた正方形のキャンバスにぴったりと収まるだろう。銀閣があの豊穣な色彩で描かれたのならキッチュだろうが、さぞ味わいのある作品になるだろうに。およばずながら、そのうち自分で珍なる
銀閣でも描いてみるか。

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