昨日の日曜日はサントリー美術館で開催されている『没後190年 木米(もくべい)』展に行ってきました。
サントリー美術館の企画にハズレなしというのが私の持論ですが、いやいや、この展覧会は素晴らしかったなあ♪
木米(1767〜1833)は江戸中期から後期にかけて、京都で活躍した陶工にして画人・文人だった人物です。本展では前半は、その陶芸活動。後半は50代から余技としてはじめた絵画を中心に展示がされていました。
隙のない陶芸に対して、大らかに描かれた絵画は対照的で、木米という人物の一筋縄で行かない姿をよくあらわしていました。
陶芸は中国の政治や白磁を模した作品が多く、容易に真似できない大陸の磁器をやすやすと(いう風に見える)踏襲し、しかも木米独自の世界を広げているのが凄いと感じました。
陶芸に関しては耳学問なのですが、例えば青磁というのは、通常の陶器が950度くらいで焼くところ、1300度の高温でしかも低酸素状態で焼かない、あのような澄んだ青にならないという、かなり難しい技術が必要とされるようです。
まるで高地マラソンみたいですね(笑)。
失敗すると黄色くなってしまうそうで、日本の陶工も最初は真似することができず、黄色く焼かれたものを「こんなんで、ええやろ」としたものが黄瀬戸だそうです。
日本と中国、工芸に関して言うと、実はチャイナの方がはるかに完璧主義で(皇帝に献上するため)、ジャパンの方がはるかに好い加減で大らかなんですね。
それが木米の焼いたものを見ると、宋朝の青磁に肉薄している…というか、換骨奪胎で独自の風合いを出しているところが、本当に凄い!
若い頃に木米が聴覚を失ったというのも、修行時代、師匠の奥田頴川の窯が爆発したことによるものだそうです。爆発は単に事故だったでしょうが、陶磁器についての探求がうかがえる気がします。
聴覚を失ったことで木米は書物に没頭し、30代で中国の陶磁器専門書『陶説』と出会い、より深く陶業に邁進するということをサントリーの学芸員さんは述べています。
木米は陶器の専門書以外の書物を読みふけったはずで、この時代にマルチな才能を求められた「文人」という世界にも身をゆだねていったのでしょう。
絵画はそのあらわれだと思いますが、この時代の文人のマルチな活動にも驚くばかり。あの雨月物語の上田秋成が陶器をたしなんでいたのも、本展を見て驚いた次第です。
展覧会の後半は書画が多くなるとのこと。
また見に行ってブログ記事にいたしますので、どうぞお楽しみに。